前の投稿:「成績」は、和製漢語 ① ーその青春ー
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白+貝はさておき、時代を経ると責で賦貢(租税)全体を表すようになります。白川静博士の字統によると、賦貢として納める農作物が積、織布が績とされました。甲骨文字の時代にはなかった新たな漢字です。1100年経ってようやく積と績が出現しました。成績の績は、租税、すなわち歳入源を区別するために作られた文字だったのです。

※東部ユーラシア伝統の蚕糸織布は、当時から世界最高品質で、後世の卑弥呼の時代、魏志倭人伝にも返礼品目として記録されています。(絳地交龍錦・絳地縐粟罽・蒨絳・紺青・紺地句文錦・細斑華罽・白絹…)
また、後の漢の時代、西方(特にローマ帝国)における絹の需要は、主に上流階級の女性たちのファッションや贅沢品としてのニーズから爆発的に高まりました。当時のローマでは、絹は「金と同じ重さ」で取引されるほどの超高級品でした。

積も同じく租税ですが、殷や周の時代は鉄製農具はまったく普及していないことを忘れてはなりません。木製農具は損耗率が高く、作成も磨製石器か黒曜石による削り出しでしょうか。鉄製の鎌がないので、穂の収穫は石包丁。気が遠くなる時間、手間、重労働が必要です。
積について:鉄器普及による飛躍的な生産向上は400年後の春秋末期からです。当時の種籾1粒から採れる収穫倍率は4~5粒と推定されます。(現在の収穫倍率は1→約40粒)そして悪天候や自然災害の前に軍事・行政は無力です。たとえば東部ユーラシアでは、大規模な大雨や旱魃が起こると必ずといっていいほどトノサマバッタの群生相が発生して、大規模な農被害を与えてきました。蝗害は有史以来500回以上を記録、古代の頻度は平均して3年に1度。殷の甲骨文にも既に蝗害の記録が見られます。積は歳入として極めて不安定だったのです。

績は比較的ですが天候には左右され難く、行政による組織化、効率化、守秘義務、マネジメントによって質量共に安定したことが、後世の春秋左氏伝に記されています。絹糸を取引する官営機関、官営織場、官営裁場に、蚕餌桑畑の管理運営も王朝の重大事項でした。時代を経て蚕餌桑畑は黄河流域全体へと拡大することになります。
参考資料:『春秋左氏伝』より抜粋
漢文(原文)
初,吳人鍾離之生生,與楚邊邑卑梁氏之生生,爭桑。二女童爭桑,籠相劃,秦、楚兩家怒而相攻。卑梁大夫怒曰:「楚人雲我邊,不可不討。」乃發兵攻鍾離,滅之。楚平王大怒,發兵滅卑梁。吳王寮聞之,大怒,亦發兵,使公子光伐楚,滅鍾離、居巣而還。
読み下し文
初め、呉人の鍾離(しょうり)の※生生(せいせい)と、楚の辺邑(へんゆう)卑梁氏(ひりょうし)の生生と、桑を争う。二女童 桑を争い、籠(かご)相劃(あいまか)り、両家 怒りて相攻む。卑梁の大夫 怒りて曰はく、「楚人 我を辺なりとし、討たざるべからず」と。乃ち兵を発して鍾離を攻め、これを滅ぼす。楚の平王 大いに怒り、兵を発して卑梁を滅ぼす。呉王僚 これを聞き、大いに怒り、亦た兵を発し、公子光をして楚を伐たしめ、鍾離・居巣を滅ぼして還る。
(注: 「生生」は養蚕に携わる人々・生業の場を指します)
現代語訳
かつて、呉の領域となった鍾離(しょうり)の養蚕に携わる者と、楚の国境の町である卑梁(ひりょう)の養蚕に携わる者との間で、桑の葉の取り合いが起きた。
双方の二人の少女が桑の葉を奪い合って桑籠(くわかご)で叩き合いの喧嘩となり、両方の家族が激怒して互いに襲いかかる事態に発展した。
卑梁の領主(大夫)は怒り、「楚の奴らは我が国を境の田舎者だと言って馬鹿にしている、撃ち破らねばならぬ」と言って兵を挙げ、鍾離を攻撃してこれを滅ぼしてしまった。
楚の平王はこれを聞いて大いに怒り、自ら兵を発して卑梁を攻め滅ぼした。
今度は呉王僚がこれを聞いて激怒し、同じく兵を出して公子光(のちの呉王闔閭)に楚を討たせ、楚の鍾離と居巣を滅ぼして引き揚げてきた。

史実・背景の解説
- 国家・地方行政と「桑畑・養蚕」
- この事件(いわゆる「卑梁の釁(きん)」または「卑梁の桑」)は、民間の些細な子供の喧嘩に見えて、実際には国家行政が管理する極めて重要な経済資源(桑畑・養蚕基地)を巡る過剰反応から発生した大規模な国境紛争でした。
- 春秋時代の各諸侯国にとって、絹は対外貿易・軍事資金・外交贈答の要であり、官営の養蚕・製糸・織場システムや桑畑の統制は王朝・領主の財政基盤そのものでした。そのため、国境付近の桑畑の侵害は単なる農耕トラブルではなく「国家の経済的生命線への攻撃」と解釈されたのです。
- その後:呉楚間の衝突は、単なる一回限りの国境紛争に留まらず、両国の運命を決定づける約30年間に及ぶ全面戦争へと発展し、軍力を消耗し切った呉は、紀元前473年に越王勾践の反撃を受け、呉は完全に滅亡しました。
- 後世(黄河流域)への波及
- 長江・淮河流域(呉や楚)で高度に組織化された養蚕管理体制や技術、ならびに桑園経営のノウハウは、その後、戦国時代から秦・漢代にかけて黄河流域全域へと国家的な行政施策として普及・拡大していきました。

まとめ:たかが子供の桑の葉っぱの喧嘩でなぜここまでの争議に発展するのか?日本なら村の長老同士の話し合いで決着するはずです。このような争いは日本の価値観では意味不明で理解不能ですが、2500年前から変わらぬ東部ユーラシア大陸の現実といえます。日本の国境も他人事ではないような気がしますが、これ以上は記事の趣旨から外れますので、ここまでです。
補足:その後の世界の養蚕事情
①西洋…貴重な外貨獲得手段である蚕糸織布生産技術や、通経断緯等絹織物の技法は情報統制(守秘義務)も紛争になるほど厳しく、西洋への伝播はユスティニアヌス帝の時代まで待たねばなりません。
②日本…日本産の絹織物技術水準が本場に追いつくのも、ようやく江戸時代末期になってからです。
※天保13年、福島県伊達郡梁川町の中村善右衛門が養蚕用の寒暖計を発明。善右衛門の創意工夫により養蚕の温度管理が可能となり、日本の養蚕技術が飛躍的に向上した。
閑話休題。(賦貢の)功績、(賦貢の)業績、(賦貢の)実績、(賦貢の)治績、(賦貢の)挙績、(賦貢と)戦績、三載考績・考績幽明(書経)…績の付く漢字・四字熟語は、すべて周王朝期の軍事・養蚕行政に起源のある漢語です。成績以外のこれら熟語にも、なぜ績が使われるのか意味不明でしたが、起源まで遡って、ようやく腑に落とす事ができました。
(残るは成績のみです)

しかし蚕糸織布生産技術において数千年に渡り世界TOPの品質、シェアを維持し続けたことは驚異的です。最初の第一歩を絶対に譲らない、軍事力に訴えてでも譲りはしない…国家の存亡を辞さない姿勢を数千年貫いた結果であって、巨大プロジェクトが得意なのが大国たる所以なのでしょう。
対比すると、日本の半導体シェア売上高が世界70%→6%に転落するまであっという間でした。日本人の美徳の譲り合いの精神は国際的にまず通用しないのは事実です。一歩譲ったらどこまでも踏み込まれるのが国際社会の現実です。
残念ながら半導体だけではなく、日本はこの巨大プロジェクトというものを大の苦手としています。蛇足になりますので、別記事に纏めておきました。リンクだけ張っておきます。https://www.rescue-119.jp/news/archives/1355

少年の疑問は深まるばかりですが、本論の前に周王朝が績を集める目的を明らかにしておくのも、重要と思います。周王朝は周辺諸国、特に東南アジアとの交易で貨幣(宝貝)を入手するために績などの交易品が不可欠でした。績等を輸出して、子安貝を輸入していたのです。績は(現代風に言えば)付加価値が高く、換金率が高い商品ということになります。

https://news.goo.ne.jp/article/love_spo/sports/love_spo-226144.html#google_vignette

績を理解するには責の字解から
さて、更にもう一点重要で避けて通れないことがあります。責(旧字は朿+貝)の甲骨文字(右下画像)の字解を明らかにしなければなりません。そもそもなぜ責は責という形をした文字なのでしょうか?※以下ちょっと閲覧注意です。漢字は(恋愛と同じで)光があれば、漆黒の闇もあります。小学生の良い子のみんな、ヒトの闇が苦手な方は読み飛ばしてください。
①十字に組み付けた標木(華表)+貝(財産)の会意文字が責です。
②華表とは、殷周時代から今日まで、東部ユーラシアを象徴する伝統建築様式に用いられる、立柱祭祀の標柱です。甲骨文字と写真を並べて見比べると↓姿かたちが遥か昔と相似していることに驚かされます。

③王宮や陵墓、そして使府(軍事・行政機関)の参道入り口の両側に建てられました。
④古代世界の標木とは恐ろしいモノでした。まずは甲骨文字の形に注目してください。縦木の先端が尖っていますが、いったい何を刺していたのでしょうか?現在の華表のてっぺんには蹲獣像が乗っていますが、これは諸葛亮孔明と饅頭のエピソードと同様、当時はドン引きするような何かを刺していたのでしょう。
⑤十字に組み付けた標木はタダの横棒ではなく、横長のHの形をしています。※上の方で出てきた兮甲盤「成周四方の責」の責の朿も横長のHの形です。
⑥横長のHの形をした横木は甲骨文字「方」と同じ形です。死者を吊るす首枷の形です。なぜHの形をしているかというと両端は枷のストッパーです。※リアル首枷の画像はキツすぎるので、ニコニコ動画より画像引用させていただきました。

⑦画像右上「責」の甲骨文字の横木右端から滴り落ちているのは「血」と考えられます。ドン引きです。甲骨文を彫り込んだ神祇官のミスの可能性ですが、画像を見ると枷の右側は下から上に彫り込まれており、血の部分は上から下に(わざわざ逆方向に)彫り込まれていすので神祇官のミスは考え難いです。何よりも神に問う甲骨文に瑕疵は許される筈もなく神祇官の首が飛ぶでしょう。したがってこの記事では文字の一部としてわざわざ神祇官が流血淋漓を彫り込んだと判断します。


つづけて、第2話をどうぞ!

闘将!!神祇官くん!(妻子有り)次号急展開! 皇女様の贈り物「えっ!これを僕に?」の巻!乞うご期待
書損が許されない甲骨文字
閑話休題。過去に発掘された甲骨文字につき「書き損じ」が無いことに驚愕させられます。それほど古代殷代の神に問う文字彫刻は、命懸けの仕事でした。一方で古代は文字に自由度があり、たとえば漢字の「車」で「左側の車輪が損壊した」を一文字で表すこともできました。流血淋漓の責も他の責と書き分ける何らかの理由、プラスαの意味があったと思われます。

車の他に例えば、甲骨文字の虫歯も歯の中に虫がいる一文字で「う蝕症(うしょくしょう)」を表します。この古代文字は見ているだけで思わず歯が痛くなってきます。

ただの文字というのにアイロニーとユーモアがあり、かつ歯医者の無い時代の古代人の絶望と、虫歯を糸で縛り弓矢で抜くしか治療方法がない恐怖も同時に漂わせ、将に絶品です。このように、一文字で何種類もあった豊かで自由な表現も始皇帝の文字統一で消滅してしまいました。
残酷な由来が多い漢字の原義

風習そのものを対比しますと、日本と余りにかけ離れた残虐なそれで、ドン引きです。たとえば白川説によれば、漢字右の口は口(くち)ではなく神への祝詞を入れる器の口(サイ)ですが、その材質はどうもしゃれこうべのようです。(蛇足になりますので、別記事に纏めておきました。リンクだけ張っておきます。)
漢字「口」(サイ)の材質・素材(material)は、しゃれこうべ
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1400

漢字の「道」も、都道府県の「縣」も下のイラストのように残虐です。「責」「方」「右」「器」「道」「縣」のように死体、生首を殊更に吊り下げる残虐な風習や、儀式として大量に髑髏を使う習慣は、異民族に恐怖を植え付け、戦後の反乱を避ける等の意図があると思われます。「逆らえばこうなる」という見せしめです。
ウクライナ戦争でも同じような(ロシア兵による)遺体損壊の残虐行為がありました。ユーラシアは周りが全て異民族のリアル・バトルロワイアルな大陸です。同じ人間でなぜ大陸と日本でここまで違うのか。もしも日本海が無く、地続きだったとしたら、日本もどうなっていたかわかりません。


時代を経てあの恐ろしかった標木はその形だけが残り、華表になりました。有名なものとして、天安門広場にある一対の華表があります。
『准南子』墜形訓によれば、華表は「都広に在り、衆帝の自りて上下する(天上の神と通じる)天の梯子」と理解されますが、華表が「天安門広場」にあるのが実に象徴的です。血生臭い歴史の記憶というものは、簡単には消し去り難いのでしょう。
責の原義と、古今東西変わらない執行力
周王宣が軍士兮甲に命じたように、軍隊で征服した地域を自国領土として使府(都護府・総督府)に標木(華表)を打立て、占領地から財産を(軍隊や行政の執行力で)租税として徴収するという、王から軍士に課された責務が責の原義になります。現代でも公の強制力、執行力(逮捕・拘束・重加算)を背景に税金が徴収されます。今も昔も同じです。おそらく未来もそうでしょう。
しかし改めて振り返ると、経営管理はともかく、北方異民族、征伐、総督府、死者を吊るす首枷の標木(華表)、賦貢、奴婢とか小学生にどう教えていいのやら、現代日本の価値観と対立する概念が総出演します。即ち、ユーラシア大陸の厳しすぎる地政学的特性です。小学5年生に、ありのままを伝えるのか、そっ閉じか、皆さまのご家庭ではどのように伝えられるでしょうか。突き詰めれば明日の日本を良くする国造りのための最良の方法という話にもつながります。子育て=国造り。親は責任重大です。現代の人権思想・ヒューマニズムを踏まえた対比等、情操教育上、配慮ある説明は必要かもしれません。

「成績」は、和製漢語 ③ ー未来への遺産ー
につづく!
https://te2ya.com/kanji/story-kanji-seiseki03/
