前の投稿:狗奴国首長墳発見
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皆さんお元気ですか?当サイト管理人の松山です。
曾祖父の名前をgoogleで検索したのが、ことの始まりでした。
国会図書館のサイトでHITした、愛知県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第八 「青塚附近古墳分布圖」(以下、調査図)に名前を見つけて「!」となった次第です。曾祖父、松山鶴吉の世襲名は松山忠左衛門(呼び名は忠左さん)で、明治・大正の頃は、青塚古墳は忠左(ちゅうざ)の個人所有でした。

大正時代に忠左が青塚古墳の発掘調査をしたというのは、親戚筋から聞いていましたが、当時の調査図をこの目で見るのは初めてです。一目見てこれは凄い!と直感しました。いったい何がどう凄いかは、その場で言語化できなかったのですが、とにかく凄いということだけは、3秒でわかりました。
…正直、その凄さの言語化を、いまだに考え続けている次第ですが、まずは現時点での結論を書き記しておきます。
| 調査図を見て凄い!と思った理由 |
|---|
| ① チャールズ・ダーウィンの研究姿勢と相通ずる。 |
| ② 消滅し続ける墳丘群を後世に残すことができた。 |
| ③ 形状の特定が、学術論文よりも約10年早い。 |
| ④ 創意工夫こそが、ビッグバンの核(コア)になる。 |
| ⑤「世紀の発見」の可能性と、同時に直感した恐ろしさ。 |
時間を味方にしたダーウィン、曾祖父
当サイトを訪れる方なら説明不要と思います。進化論で知られるチャールズ・ダーウィンは、その晩年、40年以上にわたって「ミミズによる土壌形成」の研究に没頭しました。一見すると地味で小さなミミズの働きが、長い年月をかけて地球の景観を変えていく—。ダーウィンが証明したのは、「微細な観察の積み重ねこそが、巨大な真実を解き明かす」というものでた。

曾祖父の長期的な視点(長期実証実験)
・「時間」を味方につけた観察
ダーウィンは、短期間では分からない自然の微細な変化を、数十年にわたる長期追跡観察で明らかにしました。これは「急がば回れ」という言葉のように、科学的根拠を確実にするための最も地道で、かつ最高の方法のひとつとされます。
・裏庭を実験場に
特殊な装置や大掛かりな実験室ではなく、自身の日常的な環境(庭)をフィールドワークの場として利用し、日常生活の中で観察を続けました。

忠左の活動もまた、これらに通じるものがあるのです。
長期にわたる継続性
流行や一時的な関心ではなく、生涯をかけた観察。
現場主義
書類上のデータではなく、自らの足と手で触れた実体験。
微細な変化への洞察
地元民にしか分からない、わずかな起伏や土地の「気配」の察知。
古き良き時代の樂田の少年たちは村内を駆け巡ります。記事主がその最後の世代になるのでしょうか。特に弘法様の日は駆け巡ります。少年時代から野山を駆け、土地の呼吸を感じ取ってきた曾祖父にとって、古墳は単なる土の盛り上がりではありませんでした。
明治から大正時代当時の犬山→名古屋への物流の大動脈たる、木津用水の水運事業にも出資していましたので、青年期から壮年期にも青塚方面には頻繁に出かけていました。季節ごとの草木の変化から、雨後の水の流れに至るまで、加えて土地に伝わる伝承。半世紀にわたる「定点観測」を経て描かれたこの調査図には、開発によって失われる前の、文字通り「生きた大地」の記憶と五感によって刻まれた「生きた情報」「人生の記憶そのもの」であることが伝わってきます。
現代の測量技術や赤色立体地図は、極めて正確に地表の起伏を可視化します。現在の起伏図・赤色立体地図等の正確無比さとはまた違った、大正5年に曾祖父・忠左が完成させた「青塚附近古墳分布圖」には、最新技術では再現できない「人間の魂」「生命力」が宿っていると解します。
学術的に検証されない青塚附近古墳分布圖
記事主の魂を揺さぶった調査図ですが、考古学的にはこれまで検証されてきませんでした。以下①~⑨の要件が満たされていないからと推察します。
①墳丘形状の確認
②墳丘(人工の盛土か、自然の墳丘か)の確認
③埋葬施設(石棺)の存在、内部構造の調査
④遺物(年代測定の手がかり)
⑤測量調査(緯度経度の特定、精密な墳丘図の作成)
⑥学術的発掘調査
⑦科学的年代特定
⑧考古学的な型式学的研究
以上①~⑧に加え、⑨学会におけるプロセスを踏んでいません。
学術的に検証されることがなかったのは上記に加え、その他さまざまな理由があると思います。大正5年の一般の人に、現代の要件をそのまま求めるのは、…と思わなくもありませんが、しかし考古学には長年積み上げてきた科学的分析によるフォーマットがあって、それこそが永続性・信頼性そのものなのです。
余談。考古学を法学と対比してみる
※以下数十行 アコーディオン
これは法律とよく似ています。現代の民事裁判における契約や財産に関するフォーマットは、2000年前のローマ時代に原型ができていたものが、膨大な判例という歴史的な積み重ねを経て条文形成されたものです。
民法192条で例えると即時取得の要件は
①動産であること
②取引行為であること
③平穏・公然であること
④善意・無過失であること
⑤占有を開始したこと ※判例上、占有改定は不可。
※推定される要件(法律上の推定)
・平穏・公然・善意: 186条1項により、占有者はこれらの要件を満たしているものと推定。
・無過失: 最高裁の判例により、188条の「占有者が占有物の上に行使する権利は適法に有するものと推定される」規定を根拠に、無過失も推定(最判昭41.6.9)。
口頭弁論において、これらの要件が尋問により証拠として採用されず、即時取得が裁判長に認めてもらえない場合、その時点でほぼ敗訴(請求認容)が確定します。
思うに、考古学者は一人一人が、歴史の弁護士であり、検事であり、裁判官でもあるのす。
以上の理由で考古学的に価値がないと判定されるのは致し方のない事なのかもしれませんが、記事主としては、たとえ全世界の誰ひとり見向きもしなくとも、なぜ私自身は調査図にもっと早く注目しなかったのかという後悔の念があります。
調査図を丁寧に読み解けば、この楽田の地に、邪馬台国と対峙した狗奴国の痕跡が数多く存在することが自然と明らかになるように「セットされていた」も同然だからです。そもそも青塚古墳にしても、県内最大級の、しかも圧倒的に美しい古墳が楽田村に存在すること自体、普通ではありません。20世紀以降の感覚では「山と田圃しかない楽田村」ですが、温暖期の古代世界では自然災害が少なく、豊富な水量にも恵まれた日本有数の豊穣の地であって、同時に地政的要地となります。加えて神宮寺や勝部廃寺、大山廃寺等の中世巨大寺院の存在です。古代に歴史のない土地に建立されるわけはなく、基盤は2〜3世紀に既にあったのです。


…これほど決定的な証拠が身近にありながら、郷土に対する責任を果たせていなかったのではないかという念が記事主にはあります。学術的な価値観とは違った資料でも、地元の人間ならばよくよく吟味しなければなりません。地域の歴史の真実を掘り起こすのは、原則として、その土地の風土を知り尽くした、旧村や集落に住まう「郷土の人間」しかいないのです。千田先生、磯田先生や、飯田先生が行う日本史全体の大局的な研究に対し、私たち地元の人間には、足元の土に刻まれた微細な息遣いを40年、50年、60年と感じ取り、泥臭く証拠を積み上げるという、明確な役割があるはずです。日本のそれぞれの地域の人間が動いてこそ、初めて歴史の空白は埋まるのですから。
調査図の先駆的価値
さて、調査図の「大正5年」という年代ですが、尾張の古墳研究史上、どれほど異例の早さであるか、公的な調査記録と比較するとその価値が浮かび上がります。
| 尾張古墳研究史の略年譜 |
|---|
| 1916年(大正5年):青塚附近古墳分布圖(本作) |
| 1919年(大正8年): 「史蹟名勝天然紀念物保存法」発効。これ以降、全国的に調査が加速。 |
| 1923年(大正12年): 『愛知県史蹟名勝天然紀念物調査報告』の刊行開始。 |
| 1924年(大正13年): 同報告書第1集にて、断夫山古墳などの主要古墳の本格的な報告が始まる。 |
| 1935年(昭和10年)頃: 名古屋市史や各郡誌編纂のため、各地の古墳の悉皆調査が本格化。 |
後世の証言によれば「明治維新後、古文化資料に対して、人々は関心を持たず、古社寺の宝物・旧大名外諸家の持っていた古美術品は国内外に散逸し、立派な蒔絵物は焼いて金を取ったりしました。古墳其他の史蹟も江戸時代の終りまで千余年も完全に保存されたものか毀たれて失っていった」といいます。(小川栄一『美濃文化史博物館に就て』の一部。昭和20年代中頃草稿)
明治~大正初期当時、多くの古墳は「単なる小山」や「開墾の対象」として扱われていた時代だったのです。江戸時代の『尾張名所図会』のような「絵図」としての記録は存在しますが、近代的な「発掘調査」や「古墳群調査図」が、行政でも、学者でもない、ごく普通の「いち個人」によって、しかもこれほど早い時期になされていた例は、愛知県内では他に類を見ません。※三河では行政による先駆的調査の事例があります(櫻井古墳群)。
特に青塚古墳群周辺は、後の開発によって削平されて消滅した墳丘が圧倒的に多く、調査図には「古代~江戸から明治初期までは大切に残されてきた後に、時代の変化により失われてしまった土地の記憶」が刻まれているのです。
明治の少年時代に古墳群で友と遊びまわった忠左にとって、次から次に消滅していく「思い出の墳丘」たちに、一言では言い尽くせぬ思いがあったのでしょう。大正5年当時、青塚古墳は曾祖父が私財を投じて個人所有したのちに、後に大縣神社さんに寄進するに至りました。削平による消滅をおそれ、青塚古墳の未来永劫の保存を願ったものと解します。
実は考古学的価値のある青塚附近古墳分布圖
西唐曾コマ塚古墳は、調査図に「コマ塚」とありますが、(巾コマ塚古墳も含めて)はたして前方後円墳なのか、前方後方墳なのか判別に困りました。昭和24の米軍撮影空中写真を確認すると、ハタと気づきました。確かに「コマだ!」「コマ塚」とは形のことだったのかと。

先程、記事主は、古墳として認められる考古学的要件として下記の9つをあげましたが、少なくとも①の墳丘形状の確認はされていたことになります。
①墳丘形状の確認
②墳丘(人工の盛土か、自然の墳丘か)の確認
③埋葬施設(石棺)の存在、内部構造の調査
④遺物(年代測定の手がかり)
⑤測量調査(緯度経度の特定、精密な墳丘図の作成)
⑥学術的発掘調査
⑦科学的年代特定
⑧考古学的な型式学的研究
⑨学会におけるプロセス
「コマ塚」の仮説発見と同時に直感しました。「調査図って、実は郷土史にとっての参考的価値だけではなく、古墳時代研究全体においても歴史的価値のある図ではないのか」と。
調査図記載の「コマ塚」とは、前方後方墳の形状
前方後方墳の研究が本格的に始まったのは昭和22年の、梅原末治博士と島根大学の山本清武博士による島根県・金崎一号墳の発掘調査とあります。研究論文では、昭和37年に発表された明治大学の大塚初重博士「前方後方墳序説」のタイトルが事実上の初出です。
要するに大正5年当時は前方後方墳という学術用語はなかったのです。事実上の私費による所有権に基づく青塚古墳群の発掘調査当時は明治維新から50年も経っておらず、かつ帝国大学令公布からまだ30年あまりの考古学の黎明期であって、特に前方後方墳の形態的特徴や、もちろんその意義(狗奴国との関係性)も明確に理解されていませんでした。
そのような限られた知見のなか、「コマ塚」という表現によって、単純化・記号化することにより、「四角い後方部」と「長細い前方部」の形状を既存の語彙力を使って写し取り、第三者に伝えようとする忠左の意図が読み取れます。当時誰にとっても馴染みのある「独楽(コマ)」に例える単純化の技術により、学術用語がないハンデを克服しています。また複雑な測量図面を共有できない大正時代において、「コマのような形」という記号化は、第三者の脳内に瞬時に共通のイメージを形成させる強力なツールといえました。
曽祖父の眼力
これが先に述べた、古墳時代研究の歴史上の価値(先駆的事例)に相当するのです。すなわち、前方後方墳の□と□の形状、目に見える真実を①認識して②言語化し、③文字記録として後世に残した日本で最初の人物は忠左だったことを意味します。
塚田博士によれば、前方後方墳の考古学的に確実な文献は、大正14年4月に刊行された島根県史・第4巻とされます。(同巻の執筆担当:野津左馬之助氏)。大正5年当時の創意工夫による「コマ塚」の文字記録は、学術レベルなら10年、民間レベルでは50年先駆けていていました。
学術的な体系に当てはめる前段階にある、この「純粋な観察眼」こそが、科学や歴史学の最も強固な基礎となるのではないでしょうか。110年の時を超え、現代の私たちに「郷土を見つめることの本質」を問いかけているようなきがしてなりません。
| まとめ。前方後方墳(コマ塚)研究史の略年譜 |
|---|
| 1916年(大正5年):青塚附近古墳分布圖に2箇所「コマ塚」の墳丘形状を記載。松山鶴吉(大縣神社社司・旧可兒銀行/八百津銀行監査役(現十六銀行)・旧大口製絲監査役) |
| 1925年(大正14年):島根縣史・第4巻に「前方後方墳」の学名を提唱。野津左馬之助氏(旧制 島根縣立第三中學校教職・『島根縣史』編纂委員) |
| 1947年(昭和22年):島根県・金崎一号墳の発掘調査。梅原末治博士(京都大学名誉教授)、山本清武博士(島根大学教授) |
| 1962年(昭和37年):「前方後方墳序説」。大塚初重博士(明治大学教授・日本考古学協会会長) |
※なお、曾祖父の少年時代は天保年間から流行った鉄胴型や、唐コマが主流で、明治の頃には木製・竹製から、ブリキ製に移り変わったそうですが、いずれにせよ、この形のコマがなじみ深かったものと想像します。

過去の事例との対比
青塚附近古墳分布圖の検証・調査は結果的に巨大古墳群・巨大環濠集落発見による狗奴国の疎明と、邪馬台国の近畿説の推認にまでつながりました。「コマ塚」はたったの三文字ですが、忠左の「創意工夫に基づく三文字はビッグバンの核(コア)」になり、後世に残る未来への遺産になったと解します。
「歴史を塗り替えるような巨大な発見に至った」ということになりますが、そのようなことが現実に起こり得るのでしょうか?
※たとえばシュリーマンが真っ先に思い浮かびますが「伝説(トロイア)を信じて掘り当てた」という点では近いのですが、彼は最初から確信的であり、記事主のケースのような「地道な分布調査から、意図せず国家規模の中心地が浮かび上がってきた」というボトムアップ型のパラダイムシフトとは、少し毛色が違います。
そこで「見向きもされなかった資料」から「想定外の巨大文明・政治中心地」が発見された事例として、最も近いと思われるものを3つ挙げてみます。
1.ギョベクリ・テペ(トルコ)
記事主の体験に最も近い押韻を持つのは、この事例かもしれません。

①1963年、シカゴ大学などの調査団がこの地を訪れましたが、表面に散らばる石灰岩の破片を見て「中世の墓地だろう」と結論づけ、「特筆すべき点なし」として放置。
②30年後、考古学者のクラウス・シュミットが過去の調査報告書を再確認し、直感的に「これは墓地ではなく、石器時代の遺物だ」と見抜き、
③掘り進めると、ピラミッドより7000年も古い、人類最古級の巨大神殿群が姿を現した。
④それまでの「定住の前に農業が始まった」という歴史の定説を根底から覆し、人類史を書き換えてしまった。
⑤「先人の見落としを再評価し、国家・文化の中心地を見つけた」という点で、非常に高い共通性。
2.サットン・フー(イギリス)
「専門家が見向きもしなかった古墳」という点での共通性。

①地主であったエディス・プリティ夫人が、自領内にある古い土手(古墳)に何かあると感じ、独学で考古学を学んでいたバジル・ブラウンに調査を依頼した。
②当時、地元の専門家たちは「どうせ中世の残骸か、何もないだろう」と冷ややかだった。
③調査を進めると、中から全長27メートルの巨大な船葬墓と、眩いばかりの黄金の遺物、そして東アングリア王国の政治的・宗教的権威を示す中心地としての証拠が次々と発見された。
④それまで「暗黒時代」と呼ばれ、文化的に乏しいと考えられていたイングランド初期の歴史を一変させ、洗練された文明が存在したことを証明。
⑤「個人の信念と地道な発掘が、専門家の盲点を突いた」事例の代表格といえます。
⑥なおエディス・プリティ夫人の物語は、ジョン・プレストンの小説『The Dig』を通じて広く知られるようになり、2021年にはNetflix映画『時の面影(The Dig)』として映像化され、キャリー・マリガンが彼女の役を演じています。

3.エブラ(シリア)
「当初予定していなかった巨大な政治中心地が見つかった」という押韻。

①エブラという都市の名前はエジプトやメソポタミアの古代文書に記されており、存在自体は知られていた。
②しかし、それがどこにあるかは誰にも分からず、当時の専門家は「大したものは見つからないだろう」と冷淡な、あるいは無関心な視線を向けていた。
③イタリアの考古学者パオロ・マッティエは、シリアのテル・マルディーフという何の変哲もない丘を調査。当初は小規模な都市遺跡を想定していましたが、調査を進めるうちに、誰もが存在を予期していなかった「エブラ帝国」の王宮と、1万7000枚に及ぶ粘土板(エラブ文章)を発見。
④メソポタミアとエジプトの間に、歴史に記録されていない「第三の帝国」が存在したことが判明し、古代オリエント史をゼロから書き直す事態となった。
⑤マッティエ自身、後にこの発見を「地殻変動(地震)のようだ」と表現しており、当初は想像もしていなかった巨大な学術的成果であったことが窺えます。
考察1. 記事主の事例との共通点
記事主の状況がこれらと重なるのは、まとめると以下の3点です。
| ①埋もれた一次資料(大正5年の青塚附近古墳分布圖)という、現代考古学の枠外にある資料に衝撃を受け、絶大的評価・検証したという独自の着眼がある。 |
| ② 単一の遺構ではなく、「分布」というマクロな視点から調査を進めたことで、点と点が繋がり、巨大な政治的文脈(狗奴国の中心地)が見えてきた。 |
| ③それが既存の「日本史の定説」をゼロから書き直す、地殻変動のような規模であった。 |
今回の発見は単なる地方豪族の墓という枠を遥かに超え、濃尾平野の強大な政治勢力―そして樂田村・羽黒村と、その周辺が狗奴国の中心地、あるいはそれに直結する最重要拠点であったことを強く物語ります。文献の文字の中にしか存在しなかった「狗奴国」が、大正時代の一次資料や、先人が遺した地名という遺産に基づく、記事主の過去の記憶と空中写真の調査によってついに実体を伴って立ち現れた瞬間であり、我が国の古代史を根本から塗り替える極めて重要な一里塚だったと解します。日本の巨大遺跡も世界の考古学史における「世紀の発見」の数々に、けっしてひけを取るものではありません。
考察2. 記事主の事例との最大の相違点
しかし、これほどの歴史的価値を持ちながらも、私たちすべての日本人が、重要古墳・重要環濠集落の「全面的な発掘」に対して慎重であらざるを得ないのはなぜでしょうか。そこには、海外の遺跡群とは決定的に異なる、日本独自の「歴史の連続性」が存在するからです。
海外の3例(ギョベクリ・テペ、サットン・フー、エブラ)は、いずれも王朝交代によって完全に「滅びた文明」であり、現代の社会とは断絶された遺構です。そのため、純粋な学術探究の対象として躊躇なく発掘を進めることが可能でした。
一方で、日本は違います。遺跡群の時代から現代に至るまで、御皇室(皇統)が途切れることなく連綿と続いているのです。私たちが向き合っているのは、「死んだ過去」ではなく、「現代に直結する生きた歴史」の源流そのものです。王朝の交代が引き起こす抗争と大混乱(いわゆる倭国大亂)はもう二度と繰り返してはならないのです。
現代の平穏と、歴史への敬意
歴史のロマンを追い求め、土の下にある真実をすべて白日の下にしたいという思いは、考古学者、研究者のみならず多くの人々が抱くものでしょう。しかし、安易にその聖域を掘り起こすことは、私たちが今生きている社会の根幹、そして現代の日本の平和や精神的な安定に予期せぬ影を落とすリスクが内在すると想定しなければなりません。
途切れることなく続いてきた伝統と、文化。そしてご先祖への崇敬の念こそが、この国の平穏を支える目に見えない基盤となっています。
巨大遺構群の重要性を認識しつつも、発掘に対して一歩立ち止まり、躊躇する―。その慎重な姿勢自体が、私たちが自国の歴史に対して払うべき最大の敬意であり、誇るべき文化の厚みなのではないでしょうか。記事主は過去を発掘することだけが歴史への貢献ではなく、「静かに守り伝えること」もまた、未来の平和を守るための大切な選択であると考えます。
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