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楽田城の曲輪と忍者道に隠された空白の四世紀
https://te2ya.com/kunakoku/gakuden-castle-4th-century/
皆さんお元気ですか?当サイト管理人の松山です。
まずは結論から申し上げます。
織田信長の領有を経て、小牧長久手の戦いで太閤秀吉の本陣にもなり、徳川家康と対峙した、
| ①楽田城址、愛知県の「犬山市立楽田小学校」周辺には城山古墳群があり、かつては狗奴国の環濠集落のひとつだった。 |
| ②楽田城は複数の周辺古墳を切り崩し、埋立、平坦化により築造されており、戦国時代の城郭遺構の下に、まるでポンペイのように古墳群が眠っている形となっている。 |
| ③七大古墳群のある楽田村と周辺地域は、百舌鳥・古市古墳群に次ぎ、日本で2番目の古墳密集地。前方後円墳はたった1基(青塚古墳)だけで、他の数百基は全て、コマ塚と呼ばれる、前方後方墳。 |
| ④上記七大古墳群は隣の羽黒村や、外坪村、味岡村にも跨る。三ツ塚・長塚古墳群には500m~級の前方後方墳が1基、350~470m級の前方後方墳が4基、300m級複数基、270~280級複数基、260m級~はたくさん存在し、この地に狗奴國の政治的中心地はあった。 |
以上のように、この記事では結論付けます。(なお記事主は、後にも述べる要件や手順を踏んではいません。したがって、記事内容は個人的見解に過ぎません。さらに古墳群の存在を実証するためには、発掘等の費用等数十億円を個人で捻出する必要があり、行政および地権者の許可を得なければなりませんので考古学的証明は事実上不可能といえることを、予め記載しておきます)

すべての始まりは曽祖父の調査図
令和7年、記事主が調査図を基に、楽田村の古墳群を検証するうちに、狗奴国中枢の巨大首長墳の比定に至りました。松山鶴吉(世襲名は松山忠左衛門)の大正5年調査がなければ、記事主による発見も有りません。

完全なるアウェイ
調査図の細かい解説は後回しにして、さっそく青塚古墳群の東側から検証をはじめます。結論から申し上げると、大和朝廷の前方後円墳は青塚古墳のみです。あとは全て狗奴国系と思われる前方後方墳とわかりました。

これまでの通説において、青塚古墳群は青塚古墳を盟主とした古墳群で、他は全て小墳(倍塚)と解されてきましたが、実は全く異なる系統の大小墳墓の真っ只中にあるという、「完全アウェイ」ともいえる状態だったのです。例えるなら阪神甲子園球場のライト側スタンドに巨人ファンがポツンと…

たとえ話続きます。甲子園球場のライトスタンドは「阪神タイガース専用」の応援席であり、巨人ファンがそこで応援することは、観戦マナー違反とみなされるだけではなく、物理的な危険を伴いかねません。いったいなぜここに青塚古墳はあるのでしょうか?
コマ塚の「コマ」とは古墳の形状
その結論の前に、調査図に記してある古墳名ほかに触れることも、あながち無駄ではないと思います。西唐曾コマ塚古墳は、調査図に「コマ塚」とありますが、(巾コマ塚古墳も含めて)はたして前方後円墳なのか、前方後方墳なのか判別に困りました。昭和24の米軍撮影空中写真を確認すると、ハタと気づきました。確かに「コマだ!」「コマ塚」とは形のことだったのかと。要約すれば「四角い後方部」と「長細い前方部」で「コマ塚」。すなわち前方後方墳という結論になります。
※要約した部分の詳細は、別記事に纏めておきました。
「青塚附近古墳分布圖」は将来、日本よりも世界で評価される。
https://te2ya.com/kunakoku/distribution-map-aotsuka-the-world/

地名は平塚
平塚古墳群の痕跡は消滅してしまいましたが、その地名は「平塚・北平塚・上平塚・中平塚・下平塚」として、今も残っています。タモリはこう言います。「地名はその土地の記憶だよね。だから簡単に変えちゃダメなんだよ」と。実際、「平塚」に加えて、長塚、三ツ塚、林吾塚、石塚、大圓といった地名を残してくれた先人のおかげで、今回の発見はありました。

平塚第1号墳跡は現在は株式会社コーミソース工場・カルビーロジスティクス 中部センターに、平塚第2号墳跡は武田製菓本社工場・お菓子の城になっています。なお平塚の古墳は羽黒村にあるため、調査図には記載されていません。
巾集落
武智屋敷古墳・太吉屋敷古墳のある巾集落には記事主の親戚や友人、知人も住んでいますが、なぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、疑問でしたが、まさか古墳の上にまとまって住んでいたなんて。




一色浦集落
青塚古墳のすぐ南東に調査図記載の古墳(コマ塚)が見つかりました。調査図にはコマ塚が二回登場しますが、このこともコマ塚=固有名詞ではなく、古墳形状を指し示す証明となります。地名から一色浦古墳とこの記事では呼称します。形状から、こちらも狗奴國系の前方後方墳と思われます。

先述の巾集落と同じく、記事主の同級生が、一色浦集落に住んでいますが、やはりなぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、昔から疑問でしたが、氷解しました。古墳の遺構は周囲の水田よりも少し高くなっているため、巾や一色浦集落において、貴重で(対水害・地震にも安全な居住地/微高地)と解します。

現在も残る狗奴国の痕跡。一色浦古墳後方部(南側)境界。なお周辺には数多くのコマ塚の痕跡がみられます。大正5年当時は墳丘も残存していて、調査図記載のコマ塚は、一色浦古墳とはまた別のそれだった可能性もあります。

大圓(だいえん)とは環濠集落の痕跡
続けて、調査図の西端の亀塚について検討します。この集落は大円(だいえん)といって、楽田村の西の端にあります。記事主は前からこの集落が気になっていました。というのはここから徒歩で小学校まで通う同級もいたからです。

この通り、青塚集落よりも、さらにもっと遠いのです。通学路ですから、最短距離を歩くわけにもいかず、子供の足で1時間半以上かかります。隣の行政区、小牧市の小学校に行った方が余程近いのです。小学生時代の記事主にとっては見たことも聞いたこともない世界が大円なのです。その大円ですが、昭和23年の米軍撮影空中写真で地図で確認すると、狗奴国系の前方後方墳らしきものがありますので、(コマ塚と同じく形から)こちらが石亀塚および亀塚と結論します。石亀塚が「石亀が首を伸ばした形状」で、亀塚は「甲羅の形」というわけです。他にもたくさんの古墳がありますが、楽田村の境界の外側なので、調査図には記載されていません。

樂田大圓(大円)の地名の由来になったと思われる大きな円形の土地境界は、狗奴国の環濠集落の痕跡でまず間違いないと思います。亀塚のある第1号環濠集落からは、東南にのびるうねうねした道に桝形が3カ所確認できます。外敵の侵入に備えた当時の道の痕跡なのでしょう。1800年前に桝形があったのは驚愕するしかありません。いわゆる「倭国大乱」の間接的証拠は楽田村の大圓環濠集落遺跡にもあったことになりますが、現在は耕地整理され、土地境界は完全に失われています。

高槻市・島本町地域NEWS 号外NET様HPより画像引用
https://takatsuki.goguynet.jp/2021/02/25/amaiseki_koen_2jikaien_area_report/


防御としての「桝形(ますがた)虎口」は、主に戦国時代末期(16世紀中頃〜末期)、特に織田・豊臣政権下で急速に普及・発展した城郭の防御構造ですが、狗奴国と邪馬台国の時代にすでにあったとなると、1300年時代を先取っていたことになります。しかし桝形がなぜ織田・豊臣政権下で普及したのでしょうか? …もしかすると、集落に立ち寄った織田方の武将の誰かが、尾張楽田村の大圓環濠集落遺跡から着想を得たことも十分考えられます。歴史のロマンですね。

さて、大圓第1と、東隣の第2環濠集落の南側にも、たくさんのコマ塚と、小型の環濠集落を見つけることができました。(第2環濠集落は図が煩雑になるので円形を省略してあります)

ぱっと目につくだけでも、22基のコマ塚が確認できます。周辺には200基くらいあると思います。岩崎山の岩屋古墳もそうでしょう。やはり前方後円墳は見当たりません。数のうえで日本最大の前方後方墳(コマ塚)の群集地域はこの一帯と、この記事では結論します。※なお、当該古墳群の命名につき、味岡村の皆様に一任します。
空中写真で確認すると環濠集落は他にもたくさん(100集落以上)あります。青塚古墳のすぐ南側と、一色浦、巾の太吉屋敷・武智屋敷・巾コマ塚、そして城山城址の現楽田小学校も、元々狗奴国の環濠集落だったことが、土地境界からみてとれます。
青塚古墳群再考
青塚古墳を除く青塚古墳群西側も、すべて狗奴国系のコマ塚で間違いないと思います。というのは現存する痕跡はもちろん、調査図にある、耳塚や、花塚、九器塚、その他の当該箇所を探しても、前方後円墳独特の円形+台形の境界が見つからないのです。(逆にコマ塚型の境界らしきものはアチらコチらに散見することができます。)


青塚古墳群のすぐ西隣の神明社の敷地内にも古墳がありますが、こちらもやはりコマ塚の形をしています。こちらの神社は「とつぼさん」と呼ばれ、地元の皆様から親しまれています。平塚の古墳と同じく、隣の行政区、外坪村にあるため、調査図には載っていません。

耳塚と校外学習の記憶
記事主が小学生の頃、校外学習の一環で青塚古墳を訪れましたが、当時は耳塚が現存していました。樹木が生い茂る中に、白っぽい円墳状の倍塚がふたつ並んでいて、やはり墳丘は削平された状態かつ、まん丸ではなく、角の取れた縦長のものが、並列する様は言われてみれば確かに左右の耳のようでした。(おそらく前方部と後方部の残存部で、元はひとつの古墳と思われます)
記事を書いていると古い記憶が蘇ります。古墳見学の校外学習は風薫る5月、よく晴れた土曜日の午前の授業の時間枠全体を使って行われました。昭和の当時、土曜は半日授業です。楽田城の城山の前に6年生集合。振り返れば城山に見送られて青塚古墳を訪れる事のできる最後の日でした。
青塚や大円、一色浦など、周辺集落の級友たちはランドセルを背負って、下校も兼ての見学です。青塚集落から楽田小学校まで徒歩1時間以上かかりますが、この見学の日だけは現地解散することができて、彼らにとって、小学校生活6年間のなかで唯一無二の、最良の下校の日だったと思います。
(※最初は、1時間かけて古墳へ行って→1時間かけてまた学校に戻って→さらにまた1時間かけて下校の予定でしたが、あまりにも可哀そうということで、先生方の協議の結果、現地解散になりました
見当たらない前方後円墳
青塚古墳群は以上で、続けて東部丘陵地帯の姫之宮古墳群、奥宮古墳群、蓮池古墳群 。全て狗奴国系です。




現存する長塚古墳
空中写真で現存する長塚古墳を見たとき、衝撃を受けました。明らかに大和朝廷の古墳とは異質・異文化・異形態で、3世紀以前の楽田村は狗奴国、もしくは別王朝とするしかありません。楽田に住む人でも、長塚という地名は聞いたことがある人は多いと思いますが、古墳の存在自体は、ほぼ誰も知らないと思います。犬山市最大の現存する前方後方墳は東之宮古墳の72~78mとされますが、実は市内最大は長塚古墳の約80mということになります。(ただし前方部は完全に削平されています)



この記事ではこれ以上言及するには容量が足りませんので、別記事に纏めておきました。
狗奴国首長墳発見
https://te2ya.com/kunakoku/discovery-mound/
城山古墳群発見の経緯
記事主は以前より、まるで大阪城の真田丸のような出城、楽田城の小城址が気になっていました。検証したところ、コマ塚と判明し、お城の周囲には古墳群が存在していることが分かりました。この記事では城山古墳群と仮称しますが、他県の城山古墳群と区別するために、集落名の本郷より本郷城山古墳群(ほんごう-しろやま-こふんぐん)と呼称した方がいいかもしれません。




実際に現地へ行くと、画像の通り、奥から手前に緩やかに傾斜していることがわかります。
※西唐曾コマ塚古墳の前方部と似たような傾斜です。

次に楽田城小城址の旧陸軍撮影の空中写真です。お城の北側にうっすらと小城が確認できます。楽田城址および、小城が空撮された、最古の写真と思われます。

記事主のご本家の方から聞いた話によりますと、当時は昼なお暗き鬱蒼とした森のようなところだったそうです。お城から裏ノ門へと続く森と森の間に、道が通っていることがわかります。


昭和36年国土地理院撮影の空中写真です。土地の境界まではっきりわかります。

昭和23年の米軍空中写真を見ると、後方部の□の痕跡がわかりやすく、あきらかに前方後方墳です。小城址の傾斜は古墳時代の名残だったのです。巾集落の太吉屋敷古墳と比較すると、形状が非常によく似ていることがわかります。

古墳跡地では、古代と中世、近世と現代が交差する
城山古墳群も、すべて狗奴国の前方後方墳で、前方後円墳は見当たりません。大円環濠集落と同じく、古代の城山もまた、環濠集落と思われます。北と南の丸い境界がそれを物語っています。この地域には100近い環濠集落の境界が見受けられます。


密集地の拡大画像です。


昭和52年国土地理院航空写真での検証です。クロップマーク(作物痕)によって数多くのコマ塚が確認できます。痕跡において土壌調査をすれば、多量のリン酸塩(Phosphate)が検出される筈です。


楽田の古墳たちの命名について
次世代につなげるためにもいつの日か、特に楽田小学校周辺の古墳は、児童の皆さんで命名してくれる日がくることを願っています。

異次元の土地境界
それにしても本郷という土地には、狗奴国の境界がそのまま現存していることがわかります。大和朝廷~現代とは、根本的に発想が異なる別王朝の土地境界です。


密集地です。こちらも境界が古代のままです。

1000年後、古墳は土塁になった
さて、城山古墳群ですが、何故ほとんど消滅してしまったのか記事主は考えました。小牧長久手の合戦において、防御陣地構築の際に土塁として、全て転用されてしまったのではないかと。豊臣秀吉10万の大軍をもってすれば極めて短時日で構築可能だったと思われます。もちろん「伏見普請」のように地元樂田村村民にも大々的に動員をかけたのでしょう。
土塁の大きさが今一つわかりませんので、同じ個所を撮影した後年の画像と比較してみます。けっこう巨大です。城址をほぼ一周する分量が必要ということで、手っ取り早く近くの古墳群を切り崩したと思われます。

戦国時代よりも以前の楽田城は、複数基の前方後方墳
そもそも楽田城ですが、元は狗奴国の環濠集落だったと考えています。ここで大圓環濠周集落をもう一度参照してみます。

この通り環濠の中に、コマ塚が何基かあることがわかります。これは狗奴国の独特の文化のようです。織田時代の楽田城はおそらく現在のように平坦ではなく、古代の起伏のまま、古墳を利用し天守を築き、防御陣地としていたと記事主は解釈しています。
樂田城は、墨俣城、石垣山城に続く、第三の「一夜城」。
小牧長久手の合戦において、豊臣秀吉が10万の大群の本陣にする際に、造成・盛土したと解します。資料が残っていないので何とも言えませんが、何もないところから、一からお城を作るよりも、既存の古墳群に+αする方が効率的です。河内の畠山氏が高屋築山古墳を利用して造った高屋城が、その代表格ですが、複数基の巨大古墳を潰した築城…もっといえば更に数十基以上の古墳も潰して、それも神業のような短期間で城郭化・土塁造成したのは日本で楽田城だけと思われます。なぜならベースとなる楽田城段丘の地質が周囲の平地と全く変わりないからです。

なお明治の地籍図を確認すると、城址の中央部には畦道と水路が北から南に通っていて、江戸期は田畑として利用されていたことが伺われます。
学術調査されない楽田城址

集英社『週刊少年ジャンプ』DEATH NOTE より画像引用。以下余談。
この作品は従兄甥の紹介で読みました。難しいのに抜群に面白い。記事主が小学生時代にリアルタイムで読んでいたジャンプ作品で、難しくて抜群に面白い漫画は『魔少年ビーティー』(荒木飛呂彦先生)だけれども、ビーティーに小型TV &ポテチのようなアイデアを是非やってほしいと思った。昭和当時はジャンプ読者好みのサイバー感あるアイテムは、大型かつ、何百万、何千万と高価すぎて、日常の少年作品に落とし込むことが難しかった。荒木先生もDEATH NOTEを読んで悔しかったのではないか。「連載当時のビーティーに、こういうことをやらせたかった」と。
閑話休題。濃尾平野には「ポツンと段丘」が楽田城の他に、岩崎山・小牧山がありますが、それぞれ花崗岩・チャートです。楽田城が段丘状たる地質学的必然性が不明で、環濠集落と、集落中の複数の巨大古墳を基にした人工築造物と結論付けます。これはポンペイのように、古代~戦国期の土地の履歴が、地中にパッキンされている可能性が高いことを意味しますが、過去に城址の調査はされていません。仮に学術調査となると、旧丹羽郡で最も古い義校の歴史を持つ楽田小学校を移転して行う必要があり、莫大な税金の負担が発生します。現実的ではありませんし、今の平和のためにも、するべきではありません。

※名古屋空港(旧小牧陸軍飛行場)が造成される以前には岡山・佛鬼山という標高二十メートルの段丘がありました。やはり花崗岩か、もしくはチャートの地質と思われますが、今となっては確かめる術がありません。
| 楽田城址の略年譜 |
|---|
| ①原初は狗奴国の環濠集落 |
| ②集落内部と周囲には複数のコマ塚があった。 |
| ③中世も引き続き郷・集落、もしくは荘園領主か、尾張氏、丹羽氏ほか有力者の館として機能。 |
| ④戦国期に入り、防御的な地形や立地が再評価され楽田城に。元の有力者は織田一族の家臣団に組み込まれたか。 |
| ⑤小牧長久手の戦いで豊臣秀吉が本陣とし、造成・切土・盛土し、平坦化かつ土塁を補強。 |
| ⑥近世において、小学校の敷地となり現在に至る。 |
唯一の前方後円墳
これまで記事主は、この地域に点在する「七大古墳群」の検証を重ねてきました。その結果浮かび上がってきたのは、冒頭の結論の通り、鮮烈かつ、これまでの定説を揺るがす事実です。
調査した膨大な古墳群の中で、たった一基—「青塚古墳」だけを除いて、他はすべて広大な「狗奴国(くなこく)」の系譜を引く古墳群だったのです。
ではなぜ、狗奴国の中心とも言えるこの地に、ポツンと一基だけ、異質なヤマト系の前方後円墳が築かれたのでしょうか。
ヌビアに聳えるアブ・シンベル神殿との奇妙な符合
この過酷ともいえる地政学的配置を目にしたとき、脳裏にはある世界史の巨大なモニュメントが象徴的に浮かび上がりました。それは、紀元前13世紀頃、古代エジプトの偉大なファラオ・ラムセス2世が、征服地であるヌビア(現在のスーダン北部)の大地に建造した「アブ・シンベル大神殿」です。ヤマト系の青塚古墳は、まるでラムセス2世が紀元前13世紀頃にヌビア(現スーダン北部)の地に建造したアブ・シンベル大神殿のように、記事主には見えます。これは現地住民に神格化されたファラオの強大な力を、誇示するためのものです。

ラムセス2世が辺境の地にあの巨大な岩窟神殿を築いた真の目的は、単なる信仰のためではありません。圧倒的な「ファラオの絶対権力と神格化された力」を、現地のヌビア住民に見せつけ、服従させるための「政治的誇示(プロパガンダ)」でした。
2Dから3Dへ:視覚的圧倒がもたらす統治のパラダイムシフト
「青塚古墳は、ヤマトによる王朝交代を、旧狗奴国の領民たちへ決定的に知らしめるための巨大な政治的象徴であった」ということです。旧領民たちが受けた視覚的・心理的インパクトは、現代の私たちが想像する以上のものだったはずです。
狗奴国の在来古墳は大地に溶け込むような平面的(2D)で、土のぬくもりを残した平たい在来型の墳丘であって、それこそが弥生時代の方形周溝墓以来の伝統文化であり、この國の共同体の象徴でした。
それに対し、突如として現れたヤマト型の前方後円墳の構造は、圧倒的な立体感(3Dの衝撃)を持って天空へと聳え立ちました。その表面は、幾万もの「葺石(ふきいし)」で覆われ、太陽の光を浴びて白く眩いばかりに光り輝いていたことでしょう。その白い斜面を縁取るように、美しく赤色の円筒埴輪(はにわ)が整然と、寸分の狂いもなく並べられているのです。

モノトーンだった狗奴国の大地に現れた、「葺石の白」と「埴輪の赤」の強烈なコントラスト。 それは、王朝交代―圧倒的な技術・武力・組織力を持った「新たな支配者(ヤマト)」時代の到来を告げる、これ以上ない視覚的象徴でもありました。
青塚古墳は、単なる土地の有力者の墳墓ではありません。 かつてヤマトに激しく抵抗した狗奴国中枢の記憶が残るこの地で、新時代の幕開けを五感に訴えかけるという「最大の役割」を、完璧なまでに果たしたのです。
七大古墳群の謎は、私たちが生きる「この日本という国は何か」という根源を、今も静かに問い直しているのです。

それにしても青塚古墳ですが現地を訪れた事のある方なら「何だこの美しさは?」と思わずにはいられません。現地に立ち、美しい墳丘を見上げるとき、私たちは歴史を見つめていた人々の息遣いをも感じずにはいられませんが、はたしてこの保存状態は単なる歴史の奇跡なのでしょうか。
もちろん奇跡で保存はできません。それは地元青塚の集落の皆さんが1700年間先祖代々古墳を護り続けてくれたおかげなのです。特に完全アウェーの中での最初の五百年は特筆に値します。壬申の乱以降、比較的安定期に入った後もおそらく苦難の連続です。戦国時代は豊臣方の砦となり墳丘部が削平されもしました。青塚古墳は交通の要衝にあり、かつ目立ちますから、地域の有力者や時の権力者の意向に翻弄された歴史だったと思われます。
青塚古墳は国の史跡に指定されていますが、本来なら青塚集落の皆様並びに先祖代々こそ、全員が国の史跡(人間史跡)なのです。(青塚の中の人たちは、こんなこと口が裂けても絶対に言いませんので、記事主が代わりに言いました)。私の同級生にも青塚集落の人が何人かいましたが、縁の下の力持ちを絵にかいたような、粘り強く地道な仕事も黙々と遂行する同級生たちでした。
青塚集落、恐るべし
平成初期までは古墳の野焼きの風習がまだ残っていて何度もこの目で見ています。野焼きは青塚の集落の青年団と、支える家族の人たち総出で行われる一大イベントかつ、神事でした。もしも野焼きが無かりせば、他の多くの古墳同様、あっというまに雑木林になって美しさは失われます。青塚集落の一族は、邪馬臺(ヤマト)の大王(おおきみ)に特に頼まれ、この地に移住してきた子孫と記事主は個人的に考えています。冷泉家が明治天皇から「京都を頼む」と言われたように、信義・約束は千代に八千代に守られ続けるのです(歴史の押韻)。1700年以上も前…応神天皇の時代(所謂倭の五王の時代)よりも昔から連綿と続いてきたのかと思うと、青塚集落先祖代々様には畏怖と畏敬の念を覚えずにはいられません。
樂田村は「集落あって村なし」です。個別の集落ひとつ一つが小さな村並みのコメの収穫量と、高品質による経済力と独立性を持っていました。(狗奴国の政治的中心地が置かれるほど豊かな土地)また王朝交代から200年に渡り尾張國最大の築造物が、ここ青塚集落に存在したという事実(郷土集落の誇り)も見逃せません。青塚古墳が力強く、素晴らしいとすれば、それは青塚の人々が素晴らしく、自尊自立の力も並外れて強いのです。青塚古墳は鏡に映る人の姿、人々の生き様と解します。
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