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楽田城の曲輪と忍者道に隠された空白の四世紀
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樂田(がくでん)城は、豊臣秀吉の「一夜城」
皆さんお元気ですか?当サイト管理人の松山です。
この記事の結論の前に、樂田城の基礎知識を、簡単に触れておきます。

樂田(がくでん)城の上図にある築堤(土居/土塁)ですが、小牧長久手の戦いにおいて、豊臣秀吉が10万の大軍の本陣にする際に、極めて短期間のうちに造成・盛土されたことは歴史的事実です。『多聞院日記』『小瀬甫庵著の「遺老物語」』の記述による。

したがって樂田城は、墨俣城と石垣山城の間に位置する、(第二の)一夜城と解します。通説では敗軍の城とされ、これまでほとんど顧みられることはありませんでしたが、記事主にとっては「偉大な郷土のお城」です。
近年では新資料の発見もあり、「局地戦(羽黒や、長湫)では家康が戦術的に勝利しつつも、戦局全体や物資・広域包囲網としては秀吉が戦略的に圧倒していた」という見方が強まっているようです。(藤田達生氏、村井祐樹氏らの著作・論文による)
| 一夜城 | 築年 | 合戦名 |
|---|---|---|
| 墨俣城 | 1566年 | 美濃攻め(斎藤家との戦い) |
| 樂田城 | 1584年 | 小牧長久手の戦い |
| 石垣山城 | 1590年 | 小田原征伐 |
当戦いにつき、「徳川方の完勝」を通説としたのは旧陸軍の日本戰史が由来になります。

一夜城の最大の要件は「勝者の城」であることです。戦略的勝利をもたらした樂田城が、歴史的に正当な「一夜城」として認識される日が、いつか訪れると思いますが、樂田城の調査と解明は同時に、この国の古代史解明にも深く関わることになり得るのです。
樂田城と小牧山城 ―羽柴・徳川の築城戦―
さて、織田・羽柴・徳川、天下分け目の天正の三帝会戦において、二城(小牧山城・樂田城)は家康・秀吉の本陣でしたが、後述の対比の通り、地質上の違いから要塞構築戦においては豊臣方に不利だったのですが、互角にまで持っていくことに成功しています。不可能を可能にしたのが、樂田城周囲の狗奴国古墳群でした。この古墳群は、歴史上まったく知られていません。

これまで知られてこなかった原因は、豊臣秀吉による築城があまりにも神業すぎたためと解します。国土地理院の空中写真による、境界痕跡や作物痕、そして郷土の人間による皮膚感覚によって、440年経過後ようやく比定されたことになり、調査を進めるうちに狗奴国の政治的中枢の発見にまで至ることになったのです。一連の連鎖的発見は、まるで地殻変動が起きたかのようでした。敗者の城として打ち捨てられてきた郷土のお城には、わたしたちの国の成り立ち、この土地の王朝交代の物語も秘められていたのです。

樂田城ほかの調査を進めるうち、見えてきたのは空白の4世紀でした。この地域は、古代より現在に至るまで、東西の交通・水陸の物流が交差する地政学上の拠点であり、木曽川流域・木曽川水系による半無限の水資源に恵まれた豊穣の土地であって、「軍事・政治・食の安全保障における、絶対的な要(かなめ)」でした。秀吉は、かつて狗奴国が握っていたこの地勢的優位性を的確に掌握し、活用したからこそ、戦局全体を支配する広域包囲網を敷くことができたのです。




現在における日本最大の、陸上ロジスティック(物流)の要も、秀吉の勢力範囲にあります。地政学的な要衝は今も昔も変わりません。※秀吉方はこの辺りを通って長久手方面に軍勢を進めています。

狗奴国以降は政治上の拠点ではなくなりましたが、この土地はいまなお軍事上の拠点でありつづけています。陸上自衛隊は春日井駐屯地をここに置いて、有事や災害時に、国民保護法制のもと、交通の生命線であるジャンクションや幹線道路の機能を維持・防護する側面を想定しています。

徳川方の補給線・食糧調達(食の安全保障)の脆弱性:
以上のように秀吉側が濃尾平野の豊穣な農地や河川・陸路の水陸交通網(物流インフラ)を押さえたことで、小牧山側は兵糧や物資の安定的調達(自給および補給)において極めて厳しい状況に立たされました。もし長久手の戦いで家康が中入部隊を返り討ちにしていなければ、三河本国が襲撃され、小牧山の補給線は完全遮断・後方崩壊に追い込まれていたはずでした。
「薄氷の勝利」「ハイリスクな賭け」:
徳川方の戦術的勝利は、三河武士の鑑たる丹羽氏重と名もなき239人の兵の、捨て身の抵抗が池田恒興らの足を止め、徳川軍の到着時間を稼いだことなど、前線の将兵の驚異的な粘りが噛み合った結果でもあります。

もし池田隊が丹羽氏重の守備する岩崎城を素通りして一直線に三河へ進軍していたり、秀吉本隊の追撃がわずかに早かったりすれば、戦況は真逆になっていた可能性が極めて高かったといえます。非常に難しい勝利だったわけで、予期せぬことが重なった場合、たとえ家康といえども只では済まなかった筈です。
一点突破型の小牧山:
家康本陣の小牧山は周囲を見渡せる孤立した山丘であり、要塞としての防御性能は高いものの、それ自体が広域な生産・流通基盤を持っているわけではありません。家康が持ちこたえられた最大の理由は、織田信雄の存在と尾張南部の拠点(清洲城など)や伊勢方面からの補給・支援があったからです。
秀吉に補給・流通の「絶対的要(かなめ)」を制圧されたことで、長期戦になればなるほど、小牧山陣営は兵糧攻め・兵糧不足に陥るリスクを構造的に抱えることになりました。徳川方の一次資料として、内部の者による日記が伝わっています。
『家忠日記』(徳川家臣 松平家忠(深溝松平家)/ 天正十二年当時のリアルタイム日記)には、長久手で大勝したものの、秀吉本隊は崩れず、「番(城砦の警備)」の負担や、連日の陣張りによる家臣・足軽たちの過酷な疲弊が克明に書かれています。

この日記によれば、秀吉軍による圧倒的物理作戦、経済包囲や作戦の長期化により、徳川陣営の物資繰りが圧迫されていく緊迫感が日々の短文から滲み出ています。
「番へまいる」「番にかわる」の頻発
日記には連日のように「○○の番へ参り候」「番代わり」「一夜番(夜勤警備)」の記述が延々と続きます。家忠自身やその配下、足軽にいたるまで、常に陣地や砦の防衛・見張りに追われていたことが窺えます。
1. 過酷な「番(陣取り・警備)」の連日派遣
長久手で池田恒興や森長可を討ち取ったものの、秀吉の主隊そのものは健在であり、小牧山城や各地の要所・砦での警戒を解くことができませんでした。
砦(城砦)の急造と維持
秀吉軍の強大な物資・土木力に対抗するため、徳川軍も小牧周辺に膨大な数の土塁や砦(作付・城の普請)を築き続けなければならず、合戦以外の「陣普請(土木作業)」が兵卒の体力を激しく削り取っていました。
2. 連日の陣張りによる家臣・足軽たちの疲弊
合戦の勝利後も秀吉軍が戦線を膠着(こうちゃく)させたため、徳川軍は野営や砦での駐屯を余儀なくされました。
- 雨天や暑さの中での陣張り 日記には「雨降」「大雨」といった天候の記録とともに、劣悪な環境下で番を続けた記録が残されています。日露・夜露に晒されながらの長期野営は、家臣や足軽たちの体力を限界まで追い詰めました。
- 休む間もない移動 岡崎(本拠地)と小牧・犬山・竹ヶ鼻方面の陣地を何度も往復・交替しており、補給路の確保や警備のための移動自体が大きな負担となっていました。
3. 経済包囲と物資繰りの圧迫
秀吉側は圧搾的な土木工事による包囲網の形成や、美濃・尾張・伊勢方面からの補給線の断絶・兵糧攻めを展開しました。
- 兵糧・小荷駄の手配難 短文の端々から「兵糧」や「小荷駄(輸送)」の工面に奔走する様子や、作物の収穫期にあたっても戦場から離れられず、領地の農業や経済がストップしている焦燥感が読み取れます。
- 圧倒的な物資量への苦悶 徳川軍は局地戦(長久手)で戦術的勝利を収めたものの、秀吉側の圧倒的な動員力と物資の補給力による「兵糧の持久戦」に持ち込まれたことで、次第に徳川陣営の物資繰りと領国経営が追い詰められていきました。
このように、『家忠日記』の最大の特徴は、後世の軍記物のような華々しい戦功譚ではなく、「今日誰々が番に行った」「雨の中で陣を張った」「普請(工事)をした」という愚直なまでの日常の短文の積み重ねにあります。
だからこそ、長久手で大勝したにもかかわらず、秀吉の圧倒的な物理作戦・経済持久戦によって徳川陣営がじわじわと体力を奪われ、最終的に和睦(事実上の屈服)へと追い込まれていく「現場のリアリティと切迫感」が如実に伝わってきます。
濃尾平野は暑い
記事主による補足です。日記には大雨の記述がありますが「冷夏」だったのでしょうか?天正12年(1584年)の小牧長久手の合戦(小牧山付近)における夏の気候は、実は冷夏ではなく、結論から言うと、むしろ「猛暑・酷暑」であった可能性が高いと考えられています。しかも小牧という土地は風が吹きません。小牧空港がこの地に造られるくらい風が穏やかで無風地帯なのです。特に夏の夜は無風で、令和の今は連日熱帯夜が続く地域です。
両軍の睨み合いは夏本番まで続きました。当時の兵士たちは、重い甲冑(鎧兜)を身にまとい、遮蔽物の少ない小牧山や砦の土塁の陰で過ごさねばなりませんでした。戦国時代当時の「小氷期の中の猛暑」のサイクルに当たっていた場合、直射日光に晒された陣中での体感温度は極めて高く、兵士たちにとっては「猛烈に暑い夏」であったと推測されます。
※家忠日記には「暑さそのもの」の記述はありませんが「夜番(夜間警備)」の記述が増えます。これは日中の暑さを避けつつ夜間の襲撃を防ぐための過酷な交代勤務であったことが窺えます。
農民兵が中心だった徳川軍
徳川領国の記録(『龍門寺拠実記』など)によると、この天正12年は多くの領民が戦に動員された結果、農作業が立ち行かなくなり、秋以降に深刻な飢饉(田畑の荒廃)を招いたとされています。これは「冷夏で米が育たなかった」というよりは、「初夏〜夏の働き盛りの時期に合戦が泥沼化し、さらに夏場の乾燥・高温なども重なって農地が維持できなくなった(人災+天候不順)」という側面が強いとされています。
結論:
当時の一次資料や気候的側面を照らし合わせると、戦略面においては、樂田城とその周辺地域全体を押さえた、秀吉の卓越した眼力が光ります。水陸のロジスティクを押さえた豊臣方には、小牧山のような物資補給面での心配は全くありません。
樂田城にはすぐ近くに里山がありますが、人間は緑が見えると心安らぐものです。心理的・視覚的な圧迫感が少ない環境といえます。
東側の山林から流れる冷えた空気や、豊かな水田地帯・緑地による蒸散作用は、広大な平野の真ん中にある小牧山に比べて局所的な涼や過ごしやすさをもたらしました。記事主の少年時代、祖父のお墓もある里山に早朝クワガタを獲りにいったものですが、それはそれは冷んやりしていました。

要塞構築戦は、秀吉方が圧倒的に不利だった
ここでいったん、話を陣地構築戦に戻します。小牧山城と樂田城の土居の版築につき、両者を対比します。
| 小牧山城(山・丘陵地)での堀・土居構築 結論:圧倒的にやりやすい(計画通りに作れる) ![]() 令和8年8月 記事主撮影。やはり無茶苦茶暑くて草茫々でした。 |
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| 織田信長が築き、徳川家康が大規模に改修・拡張した小牧山城は、周囲より一段高い粘土質や岩盤を含む強固な地盤です。 足場が良く、動員人数を活かせる: 地面が乾いているため、数万人規模の兵や人足を投入した際、効率よくシステマチックに作業を進めることができます。 掘った土がそのまま最高の建築資材になる: 山肌や麓の乾いた土(関東でいうローム層のような、濃尾平野周辺の粘土・礫混じりの土)は、適度な湿気と強度を持っています。掘り出した土を盛って叩くだけで、崩れにくい頑丈な土塁(土居)が短時間で完成します。 「堀を掘る」と「土居を盛る」がセットで機能する: 斜面や平地を V 字や箱型に掘り下げる(空堀にする)だけで、掘った深さ(高低差)がそのまま防御力になります。さらに、その掘り出した土を上に盛れば、一石二鳥で凄まじい高低差(切岸・土塁)が生まれます。 |
| 樂田城周辺(水田地帯)での土居構築 結論:極めて困難で非効率 ![]() |
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その一方、樂田城ですが、城の周囲は低湿地や深田(泥の深い田んぼ)が広がっていました。しかも秀吉入城当時は丁度田植えの時期で、「田植えの時期に堀を掘って土を盛り上げる」作業には、以下のような大問題が発生します。![]() ![]() 水分が多すぎて土居が自立しない: ↑記事主が少年時代の樂田城写真です。(Googleジェミニによるカラー化)城山のすぐ下は田圃でした。樂田城周辺の土は水分を大量に含んだ「泥」です。いくら高く積み上げようとしても、ドロドロと崩れてしまい(法面が維持できない)、強固な土塁(土居)になりません。 掘ったそばから水が湧き出る: 樂田という土地は里山が近くにあり水質が抜群に良くミネラルが豊富、しかも台地の縁にあるため地下水脈も水量も豊富で、樂田(がくでん)の地名のとおり、稲作においては豊穣の地です。 ![]() 記事主の家の庭に手押しポンプがありました。昭和40年代、近くに工業団地ができるまでは、綺麗でおいしい豊富な井戸水がタダで使いたい放題使えたそうです。夏場はスイカも冷やしたと言っていました。 ![]() 令和の現在、楽田の一帯には質の高い深層地下水が、今なお豊富に存在しています。浄水場には「楽田1号・2号・3号取水井」など市内最大5箇所が整備されており、そこからきれいな地下水をくみ上げています。水道料金が愛知県内でもトップクラスに安いのは、この自然に濾過された地下水(自己水)を約3分の1活用しているからです。 ![]() このように全時代を通じて水量が豊富すぎ、しかも田植え時のため、少し掘り下げるとすぐに水が湧き出し、足元が泥濘(ぬかるみ)化したと思われます。10万人を養生する水資源には事欠かなかったのですが、軍事では足場が悪い中での作業は、兵や人足の体力を激しく消耗させます。 乾燥を待つ時間が必要: 土居として機能させるなら、泥を盛ったあとに乾かし、何度も叩いて締め固める(版築のような工程)必要がありますが、戦時中の突貫工事ではそんな時間はありません。 |

ところが周辺の古墳群を切り崩す場合はまったく違います。土を上から下へ崩して運ぶことができるため、重力を利用でき体力的負担が圧倒的に少なく済みます。長年経過した古墳の土は適度に締まっていますが、すでに盛り土として集められているため、一度崩してしまえばモッコ(畚)や土嚢袋などに詰めて運ぶだけです。一から地面を掘り起こす必要がありません。

私が秀吉なら古墳群をある程度切土しておいて、頃合いを見図らい、ある日突然、東西南北を20~25のブロックに分けて一斉に土居築造に取り掛からせます。櫓等も予め加工した木材を用いて驚異的なスピードで建て上げる「ツーバイフォー(2×4)工法」を使ったに違いありません。




何もないところから、一からお城を作るよりも、既存の古墳群に+αする方が効率的です。河内の畠山氏が高屋築山古墳を利用して造った高屋城が、その代表格ですが、複数基の巨大古墳を潰した築城…もっといえば更に数十基以上の古墳も潰して、それも神業のような短期間で城郭化・土塁造成したのは日本で樂田城だけと思われます。
それでは樂田城周囲の堀とは?
結論から言うと、「泥深いたんぼ(湿田)」や「水を張った池状の田」は、わざわざ深く掘削しなくてもそのまま強力な堀(湿地帯・深田障壁)として機能しました。戦国時代の戦において、足腰が膝や腰まで埋まるような「湿田(しんでん)」は、甲冑を着た歩兵や馬の進軍を完全に止める強力な障害物となったからです。

昭和52年の空中写真のように、樂田城址南側、池状の水田地帯は、戦国時代当時もまさに城の南側を守る外郭(天然の泥堀)としてそのまま利用されていた可能性が極めて高かったといえます。
農民出身の秀吉が「農民を苦しめないよう配慮した」のは言うまでもありませんが、戦術的観点からも、田圃を掘り返さない合理的な理由が存在します。
省力化とスピード重視: 小牧・長久手の戦い(1584年)において、樂田城は秀吉の本陣として大規模に整備・城郭化されました。短期間で本陣防衛を固めるにあたり、ゼロから膨大な土を掘り起こす人工の深堀を作るより、既存の湿地・ため池・水田を利用する方が遥かに工期を短縮できます。
無駄な破壊の回避: 戦争が終わればその土地は再び年貢を生み出す農地に戻す必要があります。過剰に深く掘り返して復元不可能なほど農地を破壊することは、兵糧収入の面で損策でした。

| 昭和52年10月1日撮影「CB7715 」写真解説 |
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| 昭和52年のお城の南側ですが。市によって土地買収され、開発前の放置されている一瞬を切り取った写真です。この一帯が小学校式地拡大によって、農家が作付をやめて整備待ち・放置状態になり、そのうち2反は、自然と水が溜まって池状になっています。ということは、ほんの瞬間的に、土地の記憶が、まるで走馬灯のように、小牧長久手の合戦の当時を再現しています。埋め立てられてしまう寸前、土地も当時を思い出しているのです。 水量が豊富な樂田の地ゆえに「作付をやめるとすぐに池に戻ってしまう」という土地の性質そのものが、かつて戦国時代に豊臣秀吉がこの地を「天然の水堀・湿地帯」として選んだ地形的特徴と、そのままリンクしている点において、非常に興味深い現象といえます。 ![]() 参考:南側に敷地拡張された樂田城址(昭和57年撮影) |
余談です。小牧長久手の戦いはドラマ化・映画化が非常に難しいとされますが、陣地構築合戦…特に困難を鮮やかに克服する秀吉の天才性と、驚愕する家康との対比ーこれは前半のクライマックスに相応しく、必ず映像化される筈です。
それにしても徳川家康は生涯で2度も、豊臣秀吉の一夜城を実体験したことになります。初めは敵側として、ニ度目は味方側として。一度体感しているだけに、北条氏政が受けた衝撃を小田原城外側から、しみじみと理解できたのではないでしょうか。
樂田(がくでん)の七大古墳群
以上が大前提になる基礎知識で、次に当記事の結論を書きます。
織田信長の領有を経て、小牧長久手の戦いで豊臣(羽柴)秀吉の本陣にもなり、徳川家康と対峙した、
| ①樂田(がくでん)城址、愛知県の「犬山市立楽田小学校」周辺には城山古墳群があり、かつては狗奴国の環濠集落のひとつだった。 |
| ②樂田城は複数の周辺古墳を切り崩し、埋立、平坦化により築造されており、戦国時代の城郭遺構の下に、まるでポンペイのように古墳群が眠っている形となっている。 |
| ③七大古墳群のある樂田村と周辺地域は、百舌鳥・古市古墳群に次ぎ、日本で2番目の古墳密集地。前方後円墳はたった1基(青塚古墳)だけで、他の数百基は全て、コマ塚と呼ばれる、前方後方墳。 |
| ④上記七大古墳群は隣の羽黒村や、外坪村、味岡村にも跨る。三ツ塚・長塚古墳群には500m~級の前方後方墳が1基、350~470m級の前方後方墳が4基、300m級複数基、270~280級複数基、260m級~はたくさん存在し、この地に狗奴國の政治的中心地はあった。 |
以上のように、この記事では結論付けます。(なお記事主は、後にも述べる要件や手順を踏んではいません。したがって、記事内容は個人的見解に過ぎません。)

すべての始まりは曽祖父の調査図
令和7年、記事主が調査図を基に、樂田村の古墳群を検証するうちに、狗奴国中枢の巨大首長墳の比定に至りました。松山鶴吉(世襲名は松山忠左衛門)の大正5年調査がなければ、記事主による発見もありません。

完全なるアウェイ
調査図の細かい解説は後回しにして、さっそく青塚古墳群の東側から検証をはじめます。結論から申し上げると、大和朝廷の前方後円墳は青塚古墳のみです。あとは全て狗奴国系と思われる前方後方墳とわかりました。

これまでの通説において、青塚古墳群は青塚古墳を盟主とした古墳群で、他は全て小墳(倍塚)と解されてきましたが、実は全く異なる系統の大小墳墓の真っ只中にあるという、「完全アウェイ」ともいえる状態だったのです。例えるなら阪神甲子園球場のライト側スタンドに巨人ファンがポツンと…

たとえ話続きます。甲子園球場のライトスタンドは「阪神タイガース専用」の応援席であり、巨人ファンがそこで応援することは、観戦マナー違反とみなされるだけではなく、物理的な危険を伴いかねません。いったいなぜここに青塚古墳はあるのでしょうか?
コマ塚の「コマ」とは古墳の形状
その結論の前に、調査図に記してある古墳名ほかに触れることも、あながち無駄ではないと思うのです。
西唐曾コマ塚古墳は、調査図に「コマ塚」とありますが、(巾コマ塚古墳も含めて)はたして前方後円墳なのか、前方後方墳なのか判別に困りました。しかもコマ塚が複数あるのは何故…?

昭和24の米軍撮影空中写真を確認したとき、ハタと気づきました。確かに「コマだ!」「コマ塚」とは形のことだったのかと。要約すれば「四角い後方部」と「長細い前方部」で「コマ塚」。すなわち前方後方墳という結論になります。
※要約した部分の詳細は、別記事に纏めておきました。
「青塚附近古墳分布圖」は将来、日本よりも世界で評価される。
https://te2ya.com/kunakoku/distribution-map-aotsuka-the-world/

地名は平塚
平塚古墳群の痕跡は消滅してしまいましたが、その地名は「平塚・北平塚・上平塚・中平塚・下平塚」として、今も残っています。タモリはこう言います。「地名はその土地の記憶だよね。だから簡単に変えちゃダメなんだよ」と。実際、「平塚」に加えて、長塚、三ツ塚、林吾塚、石塚、大圓といった地名を残してくれた先人のおかげで、今回の発見はありました。

平塚第1号墳跡は現在は株式会社コーミソース工場・カルビーロジスティクス 中部センターに、平塚第2号墳跡は武田製菓本社工場・お菓子の城になっています。なお平塚の古墳は羽黒村にあるため、調査図には記載されていません。


巾集落
武智屋敷古墳・太吉屋敷古墳のある巾集落には記事主の親戚や友人、知人も住んでいますが、なぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、疑問でしたが、まさか古墳の上にまとまって住んでいたなんて。




一色浦集落
青塚古墳のすぐ南東に調査図記載の古墳(コマ塚)が見つかりました。調査図にはコマ塚が二回登場しますが、このこともコマ塚=固有名詞ではなく、古墳形状を指し示す証明となります。地名から一色浦古墳とこの記事では呼称します。形状から、こちらも狗奴國系の前方後方墳と思われます。

先述の巾集落と同じく、記事主の同級生が、一色浦集落に住んでいますが、やはりなぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、昔から疑問でしたが、氷解しました。古墳の遺構は周囲の水田よりも少し高くなっているため、巾や一色浦集落において、貴重で(対水害・地震にも安全な居住地/微高地)あったと解します。

現在も残る狗奴国の痕跡。一色浦古墳後方部(南側)境界。なお周辺には数多くのコマ塚の痕跡がみられます。大正5年当時は墳丘も残存していて、調査図記載のコマ塚は、一色浦古墳とはまた別のそれだった可能性もあります。

大圓(だいえん)とは環濠集落の痕跡
続けて、調査図の西端の亀塚について検討します。この集落は大円(だいえん)といって、樂田村の西の端にあります。記事主は前からこの集落が気になっていました。というのはここから徒歩で小学校まで通う同級生もいたからです。

この通り、青塚集落よりも、さらにもっと遠いのです。通学路ですから、最短距離を歩くわけにもいかず、子供の足で1時間半以上かかります。隣の行政区、小牧市の小学校に行った方が余程近いのです。小学生時代の記事主にとっては見たことも聞いたこともない世界が大円なのです。その大円ですが、昭和23年の米軍撮影空中写真で地図で確認すると、狗奴国系の前方後方墳らしきものがありますので、(コマ塚と同じく形から)こちらが石亀塚および亀塚と結論します。石亀塚が「石亀が首を伸ばした形状」で、亀塚は「甲羅の形」というわけです。他にもたくさんの古墳がありますが、樂田村の境界の外側なので、調査図には記載されていません。

日本で唯一、古代環濠集落の形状が「圓(円)」の文字として地名に残る樂田大圓(がくでん-だいえん)
樂田大圓(大円)の地名の由来になったと思われる大きな円形の土地境界は、狗奴国の環濠集落の痕跡でまず間違いないと思います。亀塚のある第1号環濠集落からは、東南にのびるうねうねした道に桝形が3カ所確認できます。外敵の侵入に備えた当時の道の痕跡なのでしょう。1800年前に桝形があったのは驚愕するしかありません。いわゆる「倭国大乱」の間接的証拠は樂田村の大圓環濠集落遺跡にもあったことになりますが、現在は耕地整理され、土地境界は完全に失われています。

高槻市・島本町地域NEWS 号外NET様HPより画像引用
https://takatsuki.goguynet.jp/2021/02/25/amaiseki_koen_2jikaien_area_report/


防御としての「桝形(ますがた)虎口」は、主に戦国時代末期(16世紀中頃〜末期)、特に織田・豊臣政権下で急速に普及・発展した城郭の防御構造ですが、狗奴国と邪馬台国の時代にすでにあったとなると、1300年時代を先取りしていたことになります。しかし桝形がなぜ織田・豊臣政権下で普及したのでしょうか? …もしかすると、集落に立ち寄った織田方の武将の誰かが、尾張樂田村の大圓環濠集落遺跡から着想を得たことも十分考えられます。歴史のロマンですね。

さて、大圓第1と、東隣の第2環濠集落の南側にも、たくさんのコマ塚と、小型の環濠集落を見つけることができました。(第2環濠集落は図が煩雑になるので円形を省略してあります)

ぱっと目につくだけでも、22基のコマ塚が確認できます。周辺には200基くらいあると思います。岩崎山の岩屋古墳もそうでしょう。やはり前方後円墳は見当たりません。数のうえで日本最大の前方後方墳(コマ塚)の群集地域はこの一帯と、この記事では結論します。※なお、当該古墳群の命名につき、味岡村の皆様に一任します。
空中写真で確認すると環濠集落は他にもたくさん(100集落以上)あります。青塚古墳のすぐ南側と、一色浦、巾の太吉屋敷・武智屋敷・巾コマ塚、そして城山城址の現楽田小学校も、元々狗奴国の環濠集落だったことが、土地境界からみてとれます。
青塚古墳群再考
青塚古墳を除く青塚古墳群西側も、すべて狗奴国系のコマ塚で間違いないと思います。というのは現存する痕跡はもちろん、調査図にある、耳塚や、花塚、九器塚、その他の当該箇所を探しても、前方後円墳独特の円形+台形の境界が見つからないのです。(逆にコマ塚型の境界らしきものは散見することができます。)


外坪古墳群
青塚古墳群のすぐ西隣の神明社の敷地内にも古墳がありますが、こちらもやはりコマ塚の形をしています。こちらの神社は「とつぼさん」と呼ばれ、地元の皆様から親しまれています。平塚の古墳と同じく、隣の行政区、外坪村にあるため、調査図には載っていません。


外坪(とつぼ)集落にもたくさんのコマ塚があって、外坪古墳群を形成していることがわかります。この集落には記事主の大叔母の家もあって、少年時代に遊びに行きました。やはり「ぎゅっ」と集まっていて不思議な土地の印象がありましたが、こちらも環濠集落だったと思われます。
耳塚と校外学習の記憶
記事主が小学生の頃、校外学習の一環で青塚古墳を訪れましたが、当時は耳塚が現存していました。樹木が生い茂る中に、白っぽい円墳状の倍塚がふたつ並んでいて、やはり墳丘は削平された状態かつ、まん丸ではなく、角の取れた縦長のものが、並列する様は言われてみれば確かに左右の耳のようでした。(おそらく前方部と後方部の残存部で、元はひとつの古墳と思われます)
記事を書いていると古い記憶が蘇ります。古墳見学の校外学習は風薫る5月、よく晴れた土曜日の午前の授業の時間枠全体を使って行われました。昭和の当時、土曜は半日授業です。樂田城址の城山の前に6年生集合。振り返れば城山に見送られて青塚古墳を訪れる事のできる最後の日でした。
青塚や大円、一色浦など、周辺集落の級友たちはランドセルを背負って、下校も兼ての見学です。青塚集落から楽田小学校まで徒歩1時間以上かかりますが、この見学の日だけは現地解散することができて、彼らにとって、小学校生活6年間のなかで唯一無二の、最良の下校の日だったと思います。
(※最初は、1時間かけて古墳へ行って→1時間かけてまた学校に戻って→さらにまた1時間かけて下校の予定でしたが、あまりにも可哀そうということで、先生方の協議の結果、現地解散になりました
見当たらない前方後円墳
青塚古墳群は以上で、続けて東部丘陵地帯の姫之宮古墳群、奥宮古墳群、蓮池古墳群 。全て狗奴国系です。




現存する長塚古墳
空中写真で現存する長塚古墳を見たとき、衝撃を受けました。明らかに大和朝廷の古墳とは異質・異文化・異形態で、3世紀以前の樂田村は狗奴国、もしくは別王朝とするしかありません。楽田に住む人でも、長塚という地名は聞いたことがある人は多いと思いますが、古墳の存在自体は、ほぼ誰も知らないと思います。犬山市最大の現存する前方後方墳は東之宮古墳の72~78mとされますが、実は市内最大は長塚古墳の約80mということになります。(ただし前方部は完全に削平されています)



この記事ではこれ以上言及するには容量が足りませんので、別記事に纏めておきました。
狗奴国首長墳発見
https://te2ya.com/kunakoku/discovery-mound/
城山古墳群発見の経緯
記事主は以前より、まるで大阪城の真田丸のような出城、樂田城の小城址が気になっていました。検証したところ、コマ塚と判明し、お城の周囲には古墳群が存在していることが分かりました。この記事では城山古墳群と仮称しますが、他県の城山古墳群と区別するために、集落名の本郷より本郷城山古墳群(ほんごう-しろやま-こふんぐん)と呼称した方がいいかもしれません。




実際に現地へ行くと、画像の通り、奥から手前に緩やかに傾斜していることがわかります。
※西唐曾コマ塚古墳の前方部と似たような傾斜です。

次に樂田城小城址の旧陸軍撮影の空中写真です。お城の北側にうっすらと小城が確認できます。樂田城址および、小城が空撮された、最古の写真と思われます。

記事主のご本家の方から聞いた話によりますと、当時は昼なお暗き鬱蒼とした森のようなところだったそうです。お城から裏ノ門へと続く森と森の間に、道が通っていることがわかります。


昭和36年国土地理院撮影の空中写真です。土地の境界まではっきりわかります。

昭和23年の米軍空中写真を見ると、後方部の□の痕跡がわかりやすく、あきらかに前方後方墳です。小城址の傾斜は古墳時代の名残だったのです。巾集落の太吉屋敷古墳と比較すると、形状が非常によく似ていることがわかります。

古墳跡地では、古代と中世、近世と現代が交差する
城山古墳群も、すべて狗奴国の前方後方墳で、前方後円墳は見当たりません。大円環濠集落と同じく、古代の城山もまた、環濠集落と思われます。北と南の丸い境界がそれを物語っています。この地域には100近い環濠集落の境界が見受けられます。


密集地の拡大画像です。


昭和52年国土地理院航空写真での検証です。クロップマーク(作物痕)によって数多くのコマ塚が確認できます。痕跡において土壌調査をすれば、多量のリン酸塩(Phosphate)が検出される筈です。


樂田の古墳たちの命名について
次世代につなげるためにもいつの日か、特に楽田小学校周辺の古墳は、児童の皆さんで命名してくれる日がくることを願っています。

異次元の土地境界
それにしても本郷という土地には、狗奴国の境界がそのまま現存していることがわかります。大和朝廷~現代とは、根本的に発想が異なる別王朝の土地境界です。


密集地です。こちらも境界が古代のままです。

1000年後、古墳は土塁になった
さて、城山古墳群ですが、何故ほとんど消滅してしまったのか記事主は考えました。小牧長久手の合戦において、防御陣地構築の際に土塁として、全て転用されてしまったのではないかと。豊臣秀吉10万の大軍をもってすれば極めて短時日で構築可能だったと思われます。もちろん「伏見普請」のように地元樂田村村民にも大々的に動員をかけたのでしょう。
土塁の大きさが今一つわかりませんので、同じ個所を撮影した後年の画像と比較してみます。坂道を上っている人が写っています。当時の成人男性の身長は160cmですから、比較すると土塁は地上から天辺まで約6.5mと巨大であることがわかります。城址をほぼ一周する分量だと4.5万立方メートル、ダンプカー数千台分が必要ということで、手っ取り早く近くの古墳群を切り崩したと思われます。

戦国時代よりも以前の樂田城は、複数基の前方後方墳
そもそも樂田城ですが、元は狗奴国の環濠集落だったと考えています。ここで大圓環濠周集落をもう一度参照してみます。

この通り環濠の中に、コマ塚が何基かあることがわかります。これは狗奴国の独特の文化のようです。織田時代の樂田城はおそらく現在のように平坦ではなく、古代の起伏のまま、古墳を利用し天守を築き、防御陣地としていたと記事主は解釈しています。
樂田城段丘の地質図

記事主は冒頭において「樂田城は周囲の数十基の古墳群からなる」と結論付けましたが、ベースとなる樂田城段丘の地質は周囲の平地と全く変わりないことが地質図からもわかります。
余談ですが、小牧・長久手の戦い(1584年)において、豊臣方がわずか数日のうちに樂田城を大改修し、巨大な要塞(城郭化)へと変貌させた「神業のような突貫工事」を目の当たりにした徳川家康の心境は、まさに大いなる「驚愕」と「極限の警戒」だったと考えられます。
「うかつには攻められぬ…」というのは間違いなく家康の本音だったでしょう。当時の家康の心理や状況を掘り下げると、以下のような葛藤と戦略的判断があったと推測されます。
- 秀吉の「土木技術」と「動員力」への恐怖
家康が最も衝撃を受けたのは、城そのものの堅固さだけでなく、それを既存の古墳群を切り崩し、一瞬で造り上げてしまう豊臣秀吉という人の天才性および、圧倒的な経済力と兵力(マンパワー)です。
スピードへの驚異: 守口から樂田へ入った秀吉は、数万の軍勢を駆使して一晩、あるいは数日のうちに二重の堀や巨大な土塁、さらに樂田城の城山に、小牧山城を睨みつけるような「高櫓(物見台)」を築き上げたとされています。
家康の視点: 「これほどの土木工事を短期間でこなすとは、敵の組織力と士気は尋常ではない。正面衝突すれば、こちらの予想を超える手痛い反撃に遭う」と、秀吉という男の恐ろしさを改めて骨身に染みて感じたはずです。
- 「小牧山城」のアドバンテージが相殺される
家康は、先に織田信長ゆかりの要衝である小牧山城を占拠し、ここを強固に陣地化して秀吉を迎え撃つ万全の態勢を整えていました。小牧山は濃尾平野全体を見渡せる絶好のポジションだったからです。しかし、樂田城が神速で城郭化され、さらに高い櫓まで組まれたことで、アドバンテージは完全にとは言いませんが、相当程度に減殺されました。樂田城址の楽田小学校は記事主の母校です。かつての城山に登れば勿論、グラウンドからも小牧山城が非常によく見えました。
お互いがガチガチに固めた要塞に籠もって睨み合う形(膠着状態)になり、家康としては「手が出せない(攻められない)」状況に追い込まれたことになります。
※なお明治の地籍図を確認すると、周囲の土居はそのままですが、城址の中央部には畦道と水路が北から南に通っていて、江戸期は田畑として利用されていたことが伺われます。
学術調査されない樂田城址

集英社『週刊少年ジャンプ』DEATH NOTE より画像引用。以下余談。
この作品は従弟甥の紹介で読みました。難しいのに抜群に面白い。記事主が小学生時代にリアルタイムで読んでいたジャンプ作品で、難しくて抜群に面白い漫画は『魔少年ビーティー』(荒木飛呂彦先生)だけれども、ビーティーに小型TV &ポテチのようなアイデアを是非やってほしいと思った。昭和当時はジャンプ読者好みのサイバー感あるアイテムは、大型かつ、何百万、何千万と高価すぎて、日常の少年作品に落とし込むことが難しかった。荒木先生もDEATH NOTEを読んで悔しかったのではないか。「連載当時のビーティーに、こういうことをやらせたかった」と。
閑話休題。濃尾平野には「ポツンと段丘」が樂田城の他に、岩崎山・小牧山がありますが、それぞれ花崗岩・チャートです。樂田城が段丘状たる地質学的必然性が不明で、環濠集落と、集落中の複数の巨大古墳を基にした人工築造物と結論付けます。これはポンペイのように、古代~戦国期の土地の履歴が、地中にパッキンされている可能性が高いことを意味しますが、過去に城址の調査はされていません。仮に学術調査となると、旧丹羽郡で最も古い義校の歴史を持つ楽田小学校を移転して行う必要があり、莫大な税金の負担が発生します。現実的ではありませんし、今の平和のためにも、するべきではありません。

※名古屋空港(旧小牧陸軍飛行場)が造成される以前には岡山・佛鬼山という標高二十メートルの段丘がありました。小牧山を南西から監視・包囲できる立地にあります。私が豊臣(羽柴)秀吉ならここにも堅牢な砦を築き数千の兵を配しますが残念ながら記録には残っていません。この2つの山も、やはり花崗岩か、もしくはチャートの地質と思われますが、今となっては確かめる術がありません。
| 樂田城址の略年譜 |
|---|
| ①原初は狗奴国の環濠集落 |
| ②集落内部と周囲には複数のコマ塚があった。 |
| ③中世も引き続き郷・集落、もしくは荘園領主か、尾張氏、丹羽氏ほか有力者の館として機能。 |
| ④戦国期に入り、防御的な地形や立地が再評価され樂田城に。元の有力者は織田一族の家臣団に組み込まれたか。 |
| ⑤小牧長久手の戦いで豊臣秀吉が本陣とし、造成・切土・盛土し、平坦化かつ土塁を補強。 |
| ⑥近世において、小学校の敷地となり現在に至る。 |
唯一の前方後円墳
これまで記事主は、この地域に点在する「七大古墳群」の検証を重ねてきました。その結果浮かび上がってきたのは、冒頭の結論の通り、鮮烈かつ、これまでの定説を揺るがす事実です。
調査した膨大な古墳群の中で、たった一基「青塚古墳」だけを除いて、他はすべて広大な「狗奴国(くなこく)」の系譜を引く古墳群だったのです。
ではなぜ、狗奴国の中心とも言えるこの地に、ポツンと一基だけ、異質なヤマト系の前方後円墳が築かれたのでしょうか。
ヌビアのアブ・シンベル神殿との符合
この過酷ともいえる青塚古墳の地政学的配置は、紀元前13世紀頃、古代エジプトのファラオ・ラムセス2世が、征服地であるヌビア(現在のスーダン北部)の大地に建造した「アブ・シンベル大神殿」を想起させます。

ラムセス2世が辺境の地にあの巨大な岩窟神殿を築いた真の目的は、単なる信仰のためではありません。圧倒的な「ファラオの絶対権力と神格化された力」を、現地のヌビア住民に見せつけ、服従させるための「政治的誇示(プロパガンダ)」でした。
2Dから3Dへ:視覚的圧倒がもたらす統治のパラダイムシフト
「青塚古墳は、ヤマトによる王朝交代を、旧狗奴国の領民たちへ決定的に知らしめるための巨大な政治的象徴であった」ということです。旧領民たちが受けた視覚的・心理的インパクトは、現代の私たちが想像する以上のものだったはずです。
狗奴国の在来古墳は大地に溶け込むような平面的(2D)で、土のぬくもりを残した平たい在来型の墳丘であって、それこそが弥生時代の方形周溝墓以来の伝統文化であり、この國の共同体の象徴でした。
それに対し、突如として現れたヤマト型の前方後円墳の構造は、圧倒的な立体感(3Dの衝撃)を持って天空へと聳え立ちました。その表面は、幾万もの「葺石(ふきいし)」で覆われ、太陽の光を浴びて白く眩いばかりに光り輝いていたことでしょう。その白い斜面を縁取るように、美しく赤色の円筒埴輪(はにわ)が整然と、寸分の狂いもなく並べられているのです。

モノトーンだった狗奴国の大地に現れた、「葺石の白」と「埴輪の赤」の強烈なコントラスト。 それは、王朝交代―圧倒的な技術・武力・組織力を持った「新たな支配者(ヤマト)」時代の到来を告げる、これ以上ない視覚的象徴でもありました。
同じタイプの古墳
尾張樂田の青塚古墳と、美濃昼飯の大塚古墳は、まるでスタープラチナとザ・ワールドのように、あまりにもタイプが同じ過ぎるとされます。実は目的が同じだったのです。※青塚古墳は(おおつか→あおつか)と転訛したものですから、元を辿れば名称も同じです。
ヤマトによる王朝交代を、不破の旧狗奴国の領民たちへ決定的に知らしめるための巨大な政治的象徴だったのです。ヤマトの同じ技術者集団による、黎明期の天皇御陵をモデルとした、政治的造成だったことが伺われます。
昼飯(不破郡)は記事主の守備範囲外で良く存じませんが、やはり周囲は狗奴国のコマ塚ばかりで、ヤマトの前方後円墳は少数ではないでしょうか。土地勘のある地元の皆様に魂の入った調査をお任せしたいところです。

青塚古墳や大塚古墳は、単なる土地の有力者の墳墓ではありません。 かつてヤマトに激しく抵抗した狗奴国中枢の記憶が残るこの地で、新時代の幕開けを五感に訴えかけるという「最大の役割」を、完璧なまでに果たしたのです。
不破郡ならびに、樂田七大古墳群の謎は、私たちが生きる「この日本という国は何か」という根源を、今も静かに問い直しているのです。

閑話休題。それにしても青塚古墳ですが現地を訪れた事のある方なら「何だこの美しさは?」と思わずにはいられません。現地に立ち、美しい墳丘を見上げるとき、私たちは歴史を見つめていた人々の息遣いをも感じずにはいられませんが、はたしてこの保存状態は単なる歴史の奇跡なのでしょうか。
もちろん奇跡で保存はできません。それは地元青塚の集落の皆さんが1700年間先祖代々古墳を護り続けてくれたおかげなのです。特に完全アウェーの中での最初の五百年は特筆に値します。壬申の乱以降、比較的安定期に入った後もおそらく苦難の連続です。戦国時代は豊臣方の砦となり墳丘部が削平されもしました。青塚古墳は交通の要衝にあり、かつ目立ちますから、地域の有力者や時の権力者の意向に翻弄された歴史だったと思われます。
青塚古墳は国の史跡に指定されていますが、本来なら青塚集落の皆様並びに先祖代々こそ、全員が国の史跡(人間史跡)なのです。(青塚の中の人たちは、こんなこと口が裂けても絶対に言いませんので、記事主が代わりに言いました)。私の同級生にも青塚集落の人が何人かいましたが、縁の下の力持ちを絵にかいたような、粘り強く地道な仕事も黙々と遂行する同級生たちでした。
青塚集落、恐るべし
平成初期までは古墳の野焼きの風習がまだ残っていて何度もこの目で見ています。野焼きは青塚の集落の青年団と、支える家族の人たち総出で行われる一大イベントかつ、神事でした。もしも野焼きが無かりせば、他の多くの古墳同様、あっというまに雑木林になって美しさは失われます。青塚集落の一族は、邪馬臺(ヤマト)の大王(おおきみ)に特に頼まれ、この地に移住してきた子孫と記事主は個人的に考えています。
冷泉家が明治天皇から「京都を頼む」と言われたように、信義・約束は千代に八千代に守られ続けるのです(歴史の押韻)。1700年以上も前…応神天皇の時代(所謂倭の五王の時代)よりも昔から連綿と続いてきたのかと思うと、青塚集落先祖代々様には畏怖と畏敬の念を覚えずにはいられません。
樂田村は「集落あって村なし」です。個別の集落ひとつ一つが小さな村並みのコメの収穫量と、高品質による経済力と独立性を持っていました。(狗奴国の政治的中心地が置かれるほど豊かな土地)また王朝交代から200年に渡り尾張國最大の築造物が、ここ青塚集落に存在したという事実(郷土集落の誇り)も見逃せません。青塚古墳が力強く、素晴らしいとすれば、それは青塚の人々が素晴らしく、自尊自立の力も並外れて強いのです。青塚古墳は鏡に映る人の姿、人々の生き様と解します。
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