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楽田 弘法さまの日

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毎年春の旧暦3月21日、楽田では旧樂田村の時代から『弘法さま』『弘法さん』と呼ばれる地域教育の伝統行事が行われて、朝の8時頃より午後まで御菓子を配ります。地元の子供達は御堂を巡って、お菓子をもらいます。これは無病息災の祈願と地域の相互扶助(お互いさまの精神)の継承、そして子供の健やかな成長を楽田の地域全体で見守ることにあります。記事主自身も忘れないように、忘備録として向こう10年の日程を記しておきます。

令和08~17年 弘法様の日程

令和08年:05月07日(木)
令和09年:04月27日(火)←来年
令和10年:04月15日(土)
令和11年:05月04日(金)
令和12年:04月23日(火)
令和13年:04月12日(土)
令和14年:04月30日(金)
令和15年:04月20日(水)
令和16年:05月09日(火)
令和17年:04月28日(土)

記事主の私も(たぶん)、松山庄七・松山義根・八代六郎ゆかりのパワースポット 小西寺にいます。どうぞお気軽に来てください。特に楽田小学校の児童のみなさんは、毎年の弘法様の日にちを忘れずに寄るようにしてくださいね。

目次

聖地巡礼のすゝめ①(自衛隊員の皆様のパワースポット)

当小西寺は男爵 八代六郎 海軍大臣・海軍大将の生家で、楠木正成と共に戦った松山家の菩提寺で、八代さんの銅像もあります。愛知県・岐阜県に赴任されたのも何かの御縁です。4/27(火)が非番・休日のとき、ご家族様とお揃いで、ぜひ足をお運びください。

小牧基地から:クルマで20分
春日井駐屯地から:クルマで20分
各務原基地から:クルマで40分
守山駐屯地から:クルマで40分(高速利用)

パワーワード:海軍大臣海軍大将楠木正成清和源氏

聖地巡礼のすゝめ②(政治家の皆様のパワースポット)

当小西寺は第一回帝国議会衆議院議員 松山義根の生家で、松山家の菩提寺です。(八代六郎さんは松山義根の実弟になります)衆議院当選以前は、楽田村村長選挙当選。丹羽郡長選挙当選。他当選多数。

当時の記録を確認すると、土佐の後藤象二郎の大同団結運動を推進する政治家のひとりでした。後藤象二郎、板垣退助の自由民権運動は、現在の日本の多くの政党の源流となっています。弘法様の日を機に御家族様とお揃いで、ぜひ足をお運びください。

パワーワード:第一回帝国議会衆議院議員当選後藤象二郎当選多数日本の政党の源流

聖地巡礼のすゝめ③(教育者の皆様のパワースポット)

当小西寺は楽田小学校初代校長 松山義根の生家で、松山家の菩提寺です。愛知県で一番古い小学校は、名古屋の丸の内小学校(名古屋第一義校)の明治4年10月ですが、楽田小学校は明治5年6月14日開校です。wikiで調べてみると近隣の犬山、羽黒、城東、小牧、古知野…すべて明治6年以降とあります(高雄義校は明治5年に仮開校しています)。名古屋武家屋敷の第五義校、筒井小学校(明治5年10月)よりも4か月早い開校になっています。当時の楽田村の村長、松山庄七をはじめ地元有志の尽力で、旧丹羽郡内では最も早い開校に至りました。都心でもない片田舎の義校にも関わらず驚異的な早さです。

楽田村時代の基金は犬山市に統合されても財団法人として存続しています。私の祖父も財団法人設立のために一生懸命奔走したと、叔母から聞いています。義校以来の伝統「施設の充実」は後の時代にも継承されました。昭和30年代40年代には、ミシン50台寄贈、オルガン50台寄贈、校内放送設備に、25mプール建設費補助等、地方の公立小学校にもかかわらず、施設の充実ぶりには目を見張るものがありました。基金の利息によるものです、この楽田村の先人のお金の使い方を小学生のときに先生はなぜ授業で教えてくれなかったのか?と思うと悔しくてなりません。身近にこんな素晴らしい、お金の使い方の教材があったのかと。リアル米百俵です。カネは教育(人材投資)に使われたのです。この基金3億5000万円と山林は、法改正で存続困難となった平成24年まで独自財源として残り続け、体育館建て替えで有終となりました。

教育者の皆様も、4/27(火)を機に御家族様とお揃いで、ぜひ足をお運びください。特に楽田小学校に赴任された先生方は、平日に弘法様のある年は難しいと思いますが、休日の年でお時間が空いたときには、ご参拝くださいませ。

パワーワード:明治5年6月14日開校基金(財団法人設立)米百俵の精神義校以来の伝統「施設の充実」

聖地巡礼のすゝめ④(好角家の皆様のパワースポット)

松山庄七の長子、松山義根が初代校長となり邸宅を義校に提供しましたが、江戸時代に名古屋相撲の相撲部屋「松山部屋」が松山の邸宅にありました。庄七本人も体躯が大きく、部屋の親方(オーナー)兼力士であって、両大関の三ツ湊、相見山も所属していた部屋ですが、その建物や土俵が残っていて校舎としたようです。私の少年時代にも、丸い土俵のあとが残っていました。(旧松山庄七宅は私、記事主の父の実家です)きっと明治時代の義校生たちも、元力士の校長の父の本格的指導のもと、勉学の合間に相撲を取って運動にも励んだのでしょう。↓は旧釜石製鐵所相撲道場より画像引用。土俵は、このような雰囲気だったと思います。

もしかすると、日本初の運動施設のある小学校は楽田小学校だったかもしれませんし、松山庄七は日本の小学校初の体育の先生だったのかもしれませんね。(元親方の血が騒がない筈がありません)。

大相撲は、東西統合(大正14年)の一方で、愛知相撲は、組織の規模が小さく、所属力士や関係者が個別に東京の相撲部屋に籍を移す「個人単位での合流」だったため、愛知独自の親方株や相撲部屋の名跡が残ることはありませんでしたが、愛知相撲から大相撲への「人の系譜」としての痕跡は存在します。

「相撲の神様」幡瀬川から、伊勢ヶ濱部屋への繋がり

愛知相撲、松山部屋出身の三ツ湊に弟子入りした国ノ音 治三郎(くにのおと じさぶろう、1880年(明治13年)1月25日 – 1960年3月20日)が、

①東京相撲の友綱部屋に預けられ、

②1900年1月友緑で序ノ口。

③1903年5月国ノ音に改名。

④1905年1月三段目、その年、日露戦争に従軍(勲八等白色桐葉章)

⑤現役時代に師匠の姪を妻とした。(国ノ音は、のちに年寄・楯山を襲名)。

⑥その婿養子となったのが、のちに関脇となり、卓越した技能から「相撲の神様」と称された幡瀬川です。

⑦幡瀬川の婿養子は昭和の大横綱・照國(伊勢ヶ濱部屋)であり、愛知相撲の流れを汲む人脈は、形を変えて東京の名門一門の土台を支えました。

⑧照國の系譜が、大関旭國、横綱旭富士、横綱照ノ富士…と令和の現代まで続いているのです。

(記事主は横綱旭富士の熱狂的ファンで、初優勝した昭和63年初場所が表紙の月刊大相撲が宝物で、いつかサインしてもらおうと、保存しているくらいですが、まさか明治時代の松山部屋から縁があったとは…)


八代六郎と第19代横綱・常陸山谷右エ門との深い親交

八代六郎は、大相撲とも深い関りがあって、すべては第19代横綱・常陸山谷右エ門との深い親交に集約されます。二人は互いを認め合う義兄弟の契りを結んでおり、様々な枠を超えた交流で知られていました。八代六郎と常陸山、そしてのちに「軍神」と呼ばれる広瀬武夫の3人が、義兄弟の契りを結ぶに至ったきっかけは、「武道への並外れた情熱」と「豪快な人間性」が互いに共鳴し、意気投合したことです。

八代六郎と広瀬武夫は、海軍兵学校に「柔道科」を正式に設置するために尽力したほど、熱心な講道館柔道の精鋭でした。
一方の常陸山も、相撲界で「角聖(かくせい)」と呼ばれるほど、技の美しさや武士道にも通じる精神性を重んじた知識人であり、武道家でした。海軍の武道推奨の動きや、共通の知人・文化人を通じて、自然と「日本の武の神髄」を持つ者同士として出会う機会が生まれました。

  • 豪快で肝が据わっていること
  • 義理人情に厚く、細かいことにこだわらないこと
  • それでいて非常に教養があり、質素倹約を尊ぶこと

常陸山は、それまでの力士のイメージを覆すほど品格が高く、八代や広瀬といった海軍の武士道の体現者たちから見ても「真の武人」として尊敬できる人物でした。八代たちもまた、型破りで豪放磊落な海の男たちです。酒を酌み交わし、武道や国家について語り合う中で瞬く間に意気投合し、役職や身分の垣根を越えて「義兄弟の盃」を交わすほどの関係になりました。

八代にとって広瀬は、海軍兵学校の熱血な後輩であり、最も信頼する同志でした。そして広瀬もまた、常陸山と深く魂が通じ合う親友(義兄弟)でした。この「八代ー広瀬」「広瀬ー常陸山」という強力な信頼の輪が重なり合ったことで、3人は固い絆で結ばれ、広瀬が日露戦争で戦死した後も、八代と常陸山の「義兄弟」としての関係は生涯にわたって崩れることがありませんでした。

話は前後しますが、常陸山はもともと東京の出羽ノ海部屋(当時は入間川部屋)の有望株でした。しかし、伯父の引き抜きトラブルに巻き込まれ、親方との関係が悪化して東京相撲を破門(除名)されてしまいます。
帰郷しても冷遇され、一時は自殺まで考えながら各地を放浪した末、東京の高砂一門と訣別して独自に奮闘していた名古屋の愛知組(松山部屋出身の三ツ湊)を頼って流れ着きました。三ツ湊はその才能を瞬時に見抜き、快く部屋に迎え入れました。常陸山は当時の喜びを後に、「暗闇に灯火を得た思い」と回想しています。


名古屋での圧倒的な強さ(全勝)
名古屋相撲の番付に就いた常陸山は、その巨体と圧倒的な怪力で他を寄せ付けず、1回も負けることなく全勝を続けました。これにより、名古屋の目の肥えたファンや贔屓筋から絶大な人気を獲得します。もし三ッ湊が常陸山を拒絶していれば、後に「角聖(かくせい)」と呼ばれ大相撲の黄金時代を築いた大横綱は誕生していなかったと言われています。名古屋の三ッ湊部屋は、常陸山にとってまさに「再生の地」でした。

引退後の常陸山は出羽ノ海部屋師匠として3横綱4大関など多くの力士を育て、出羽海一門を角界の保守本流として確立しましたが、そのルーツをたどると樂田の松山部屋に行き着くのかと思うと、感慨深いものがあるのです。


大相撲ファンの皆様も、弘法さまの日を機に御家族様とお揃いで、ぜひ足をお運びください。

パワーワード:愛知相撲松山部屋大関 三ツ湊国ノ音 治三郎第19代横綱・常陸山谷右エ門

聖地巡礼のすゝめ⑤(古墳時代専門の考古学者・歴史ファンの皆様のパワースポット)

当小西寺は、同じ松山一族の松山鶴吉(世襲名は松山忠左衛門)の菩提寺でもあります。忠左さんは古墳時代研究にその名が残るべき人で、前方後方墳の□と□の形状、目に見える真実を①認識して②言語化し、③文字記録として後世に残した日本で最初の人物でした。

塚田博士によれば、前方後方墳の考古学的に確実な文献は、大正14年4月に刊行された島根県史・第4巻とされます。(同巻の執筆担当:野津左馬之助氏)。大正5年当時の創意工夫による「コマ塚」の文字記録は、学術レベルなら10年、民間レベルでは50年先駆けていていました。「大正5年の青塚附近古墳分布圖」参照。

更に、この100年前の調査図は、狗奴国発見の嚆矢になるかもしれないのです。

歴史ガチ勢の皆様も、4/27(火)を機に御家族様とお揃いで、ぜひ足をお運びください。

特に千田嘉博先生と、飯田怜大先生をはじめ、愛知県在住、所縁のある考古学研究者・学生の皆様は、こちらのサイトを見かけられましたら、お越しくださいませ。

パワーワード:大正5年の青塚附近古墳分布圖前方後方墳コマ塚狗奴国発見の嚆矢

当寺院場所と、駐車場のご案内

小西寺(こにしでら)住所:〒484-0000 愛知県犬山市字本町12

※駐車場は有りませんので、近くの「楽田ふれあいセンター」の駐車場をご利用下さい。ご利用の際は、必ず管理人に一声おかけください。無断使用はもちろん違法駐車になります。令和9年の弘法様の日は平日で空いていると思いますが、混雑の際はご利用はご遠慮ください。(→ONE PARK楽田駅前のご利用をお勧めします)

駐車場(ONE PARK楽田駅前)

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この記事を書いた人

氏名:松山 哲也
出身地:愛知県丹羽郡 旧樂田村
現住所:名古屋市守山区
職業:街の車検屋さん
その他資格:大型第一種免許,行政書士
連絡先:webmaster@te2ya.com

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