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八代六郎が遺した日墨友好の遺産「なぜメキシコが日本を応援?」

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2026年W杯、メキシコの地で響いた日本への大声援

2026年、カナダ・メキシコ・アメリカの3カ国で共同開催されたサッカー・ワールドカップ。激戦が繰り広げられるF組の第2戦日本ーチュニジア、私たち日本人を感動させたのは、現地メキシコの人々が我が国に向けてくれた圧倒的なホームのような大声援でした。

現地メディアやSNSでも「なぜメキシコ人はこれほど日本を愛し、応援してくれるのか」が話題になりました。

日本人サポーターへの熱烈なアプローチ

現地では、日本人というだけでメキシコ人サポーターから囲まれてハイタッチを求められたり、胴上げされたりする光景が続出しました。

これはいったい?(笑)と思いましたが、このような日本への圧倒的な応援につき、ネット上では近代の「アニメ文化」や「自動車産業の進出」といった現代の繋がりに終施していました。

なかには1609年にフィリピンからメキシコへ向かっていたスペインのガレオン船が房総半島(現在の千葉県御宿町)沖で座礁の後、地元漁民に救助された素晴らしいエピソードの書込みも散見されましたが、しかし、今回のワールドカップでも証明された深い親日感情の底流には、100年以上前に蒔かれた「もう一つの歴史の種」があります。その種を蒔き、危機の時代にメキシコとの絆を決定づけた人物こそ、記事主の故郷、樂田(がくでん)松山一族のご先祖であり、後の海軍大臣八代六郎(やしろ ろくろう)でした。

八代さんや、日本人士官、海軍水兵は、現地の女性にMMKだったようで、そのイメージでジェミニに頼んでイラストを作成したらこうなりました(笑)

116年前の熱狂。1910年メキシコ独立100周年祭と「熱き乾杯」

時計の針を1910年(明治43年)へと巻き戻します。当時、メキシコは大統領ポルフィリオ・ディアスの下で独立100周年の盛大な祝賀祭を迎えていました。日本政府は、海軍少将であった八代六郎を司令官とする練習艦隊(軍艦「浅間」「笠置」)を親善使節として派遣します。

画像引用:wikipedia 装甲巡洋艦 浅間

当時、隣国アメリカからの強い政治的圧迫に苦しんでいたメキシコの人々は、日露戦争で大国ロシアを破ったばかりの日本海軍を「大国に立ち向かう勇敢な友」として熱狂的に出迎えたのです。

チャプルテペック城で催された公式歓迎晩餐会。ここで八代六郎は、歴史に語り継がれる伝説的な乾杯の挨拶を行います。
事前に用意された外交プロトコル(礼儀作法)に則って随行の外交官が作成した安全で退屈な作文を捨て、メキシコ人を「人種上の同胞」と呼び、「日墨両国は手を携えて共通の相手に立ち向かおうと熱弁を振るったとされています。会場からは「日本万歳!(VIVA JAPON)」の歓声が上がりました。形式的な官僚の作文を読み上げるだけでは、歓迎してくれたメキシコ人たちの真摯な期待を裏切ることになると感じ、あえて踏み込んだ言葉を使ったのです。
この言葉はメキシカンの魂を震わせました。現地メディアによって大々的に報じられ、当時のアメリカによるカリブ海・中南米への威圧的な介入に苦しんでいたメキシコ民衆の心に「日本は自分たちの味方だ」という強烈な記憶を植え付けました。

メキシコ国民は、米墨戦争での、アメリカの不当な侵略と、それによる国土の喪失を21世紀の今なお忘れていません。グアダルーペ=イダルゴ条約の締結された日は屈辱の日として記憶されており、1910年当時はなおさらです。メキシコ市民は練習艦隊の巡洋艦「浅間(あさま)」や「笠置(かさぎ)」を見ようと、港に殺到したといいます。当時の熱狂ぶりは凄まじく、単に遠くから眺めるだけでなく、以下のようなエピソードが残されています。

①港を埋め尽くした大群衆と大歓声日本艦隊がメキシコ太平洋岸のサリナ・クルス港に到着した際、港や周辺の海岸は艦隊を一目見ようと集まった膨大な数のメキシコ市民で埋め尽くされました。市民たちは日の丸の小旗を振り、「VIVA JAPON!」の声を枯れんばかりに張り上げて日本海海戦に勝利した日本を迎えてくれました。

②「浅間」への乗艦見学に長蛇の列港に停泊した「浅間」と「笠置」は、一般の市民にも開放されました。日露戦争の英雄艦である日本の軍艦に乗れるとあって、見学希望の市民が連日殺到し、甲板は身動きが取れないほどの人波で溢れかえりました。メキシコ市民だけでなく、現地の有力者やその家族、さらには遠方からわざわざ何日もかけてやってきた人々も多く含まれていました。

2026年ワールドカップと同じまったく光景です。記事主としては、日本とメキシコの国民レベルの友情はこの魂の入った演説から始まったと解します。2026年ワールドカップの日本への熱狂的応援の陰には、メキシコの苦難の歴史をも理解しなければならないのです。祭典たるサッカーWCでは絶対に報道されないことですが…

1915年「浅間」の座礁危機――試された日墨の絆

八代の蒔いた友情の種は、数年後に訪れた危機でも真価を発揮しました。
1915年(大正4年)、第一次世界大戦の任務に就いていた巡洋艦「浅間」が、メキシコのバハ・カリフォルニア半島の未知の暗礁に乗り上げ、浸水・座礁するという大事故を起こしてしまったのです。

当時、日本国内では「軍艦を失うかもしれない」という危機感から、艦長らの責任を追及する厳しい声が上がりました。しかし、当時の海軍大臣、八代六郎は、現場の指揮官たちを責めることはしませんでした。それどころか、ピンチを最高の外交の舞台へと変えてみせたのです。

海軍大臣・八代六郎が示した「武人の情け」とメキシコへの信頼

アメリカ政府は、日本が救助を口実にメキシコに軍事基地を作るのではないかと激しく警戒し、監視の目を光らせました。非常に緊迫した国際情勢の中、八代海軍大臣は冷静かつ大胆な決断を下します。

八代は、救助作業にあたる日本兵たちに対し、「現地メキシコの人々への礼節を絶対に欠かすな」「メキシコの主権を徹底的に尊重せよ」と厳命しました。さらに、当時のメキシコ革命の動乱で困窮していた現地の村人たちに対し、日本艦隊の医師による無料の医療活動(施療)や、物資の援助を行うよう指示したのです。

この日本の誠実な対応に、メキシコ側も応えました。現地政府や住民は、アメリカの監視をよそに、日本軍の救助活動を物心両面で全面的にバックアップしたのです。半年以上に及ぶ必死の救助作業の末、「浅間」は奇跡的に浮揚に成功。一人の犠牲者も出すことなく、日本へと帰還することができました。

事故という悲劇の最中にあっても、メキシコの領土と人々を尊重し、真摯に向き合った八代六郎の姿勢は、メキシコ側に「日本は信じるに値する高潔な国だ」という決定的な信頼を植え付けることとなりました。

座礁事故当時、アメリカが抱いた強烈な疑惑

なお事故が起きた湾は、アメリカ西海岸の要衝サンディエゴの南方に位置する天然の良港でした。

  • 「秘密の軍事基地化」の疑い: 当初、日本海軍が事故を極秘に処理しようとしたため、アメリカのメディアや政治家は「日本は座礁を口実に、アメリカの目と鼻の先にあるタートル湾を占領し、秘密の海軍基地(租借地)を建設しようとしているのではないか」と激しく疑いました。
  • 黄禍論の再燃: 1910年の八代の演説(日墨同盟の暗示)を覚えていたアメリカ側にとって、日本の軍艦がメキシコに居座る事態は、まさに最悪のシナリオの再来として警戒されました。

八代海軍大臣の「アメリカ第一」の配慮

この危機に対し、八代六郎海軍大臣は即座に方針を転換し、メキシコへの配慮はもちろんのこと、アメリカの猜疑心を解くための「全面的な配慮」を断行しました。

  • 在米武官を通じたオープンな説明: 八代はワシントンの日本大使館や駐米海軍武官を通じ、アメリカ政府(国務省・海軍省)に対して「これはあくまで未知の暗礁による純然たる海難事故であり、他意は一切ない」ことを直ちに、かつ誠実に説明させました。
  • アメリカ海軍への協力要請と情報開示: 救難作業の進捗を隠さず、現地のアメリカ海軍艦艇が「浅間」の状況をいつでも視察・確認できるようにしました。アメリカ軍に現場を「見せる」ことで、秘密基地疑惑を根底から打ち消したのです。
  • 米領サンディエゴを救難拠点に: 浅間の修理や物資補給の拠点として、あえてアメリカ領であるサンディエゴの港や現地の民間企業(潜水会社など)を利用しました。これにより、アメリカ側に「すべての作業が彼らの監視下で透明に行われている」という安心感を与えました。

日米共同の救難と危機の回避

八代の徹底した透明性重視の姿勢により、アメリカ政府や海軍は日本の意図を信頼するようになり、メディアの陰謀論も次第に沈静化しました。
結果として、アメリカ海軍は日本の救難活動(工作艦「関東」などによる半年以上に及ぶ大工事)を妨害するどころか、温かく見守り、協力的な態度をとるに至りました。

1910年のメキシコ訪問時は、一人の前線指揮官として「メキシコ市民を鼓舞し、アメリカを牽制するアドリブ」を放った八代六郎でしたが、5年後に海軍大臣となった際は、「アメリカを絶対に刺激せず、情報を開示して疑念を晴らす」という、極めて現実的で洗練された外交・危機管理を行いました。

つながる歴史。116年の時を超えて

2026年、スタジアムを埋め尽くしたメキシコの人々が日本代表に送ってくれた声援は決して、ここ数十年のポップカルチャーだけで作られた一過性の流行ではありません。
116年前、我が一族のご先祖・八代六郎がメキシコの地で示し、そして111年前の「浅間」座礁事故という危機のなかで現地の人々と分かち合った「熱い友情、リスペクト、そして誠実さ」が、いまも枯れずに息づいている証拠なのです。

ワールドカップの華やかな報道からは触れられることはありませんが、これは熱い血の通った歴史の事実です。松山一族の末裔として、この日墨友好の原点を、ここに書き残しておきます。

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この記事を書いた人

氏名:松山 哲也
出身地:愛知県丹羽郡 旧樂田村
現住所:名古屋市守山区
職業:街の車検屋さん
その他資格:大型第一種免許,行政書士
連絡先:webmaster@te2ya.com

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